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「負けたら、野球を辞めていた」甲子園決勝でミスをした球児から漏れた衝撃的な言葉…全国制覇した“中京大中京の最高傑作”のその後 

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沢井史

沢井史Fumi Sawai

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posted2023/08/18 11:04

「負けたら、野球を辞めていた」甲子園決勝でミスをした球児から漏れた衝撃的な言葉…全国制覇した“中京大中京の最高傑作”のその後<Number Web> photograph by Fumi Sawai

日米親善高校野球で高校日本代表のキャプテンを務めた河合完治(中央)。写真は当時のチーメイトだった今宮健太(ソフトバンク、左下)らと

「あれで負けたら僕のミスのせいですし、自分は野球を続けられないだろうなと思ったんです。それくらい日本一になるんだって、あの夏に懸けていました。ベンチに入っていない仲間、猛暑の中で応援してくれている仲間、学校の関係者の方々ことを考えると呑気に野球なんてできない。僕のせいで日本一という夢を壊してしまう可能性があったわけですから」

 プレーヤーとして注目されていただけでなく、チームの精神的支柱でもあった。だから責任は人一倍、背負っていたように感じる。

「実際は試合に出る選手にしかスポットライトは当たらないんですけど、本当は試合に出ていない子たちの方が多くて、そういう子たちのために(ベンチ入りメンバーに)名前が載る人間は死ぬ気でやらないといけない。頑張れば、そういう子たちが報われる。そこは絶対に忘れちゃいけないです。あの、甲子園の電光掲示板に名前が出て呼ばれるってすごいことなんですよ。でも、そこに名前が出た選手がさらに頑張ることで、みんながスポットライトを浴びるチャンスが増える。自分のために頑張るのだけれど、誰かのために頑張ることも高校野球は特に大事なんです」

高校時代はケガと無縁だったが…

 野球を辞めずに済んだ河合は、その後、名門・法政大学の一員として夢だった東京六大学の舞台に立ち、そこから社会人野球の強豪・トヨタ自動車で9年間プレーした。

 一見、華やかな野球人生だが、しかしそれは表面上のことにすぎない。話を聞けば、その後の野球人生は苦難続きだったことがわかる。

 高校まではケガとは無縁だったが、大学4年間はケガに泣かされ続けた。リーグ戦にフル出場できたのは、1年秋と4年春、秋の3シーズンのみ。規定打席に到達したのもその3度だけだった。

「最初にケガをしたのが大学デビュー戦(2010年3月の社会人対抗戦/ENEOS戦)だったんですけど、そこで左足の太ももを肉離れしました。肉離れは野球人生で初めて。春のリーグ戦の開幕に間に合わず、結局(春のリーグ戦は)途中から出場しました」

【次ページ】 社会人時代も続いたケガとの戦い

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