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まさか…「大阪桐蔭」初陣は公立校に初戦敗退「第1期生」今中慎二が振り返る“常勝軍団”の黎明期「100人いた同期生が5月には半分以下に」
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byNanae Suzuki
posted2023/08/02 11:01
あの強い「大阪桐蔭」が今夏は見られない
KKコンビの余熱があり、PL学園の強さと人気は頂点に達していた。全国どころか府内でも無名の新興私学に、大阪の逸材が集結した。その理由はチームを率いた山本泰監督にある。
南海ホークスで選手から「親分」と慕われ、史上最多の1773勝を挙げた鶴岡一人監督の息子であり、自身もPL学園の監督として1978年夏の甲子園で優勝に導いている。厳しい指導に裏打ちされた勝負強さは、何度も土壇場で発揮され「逆転のPL」と高校野球ファンをうならせた。そんな名監督の就任により、大阪の勢力地図は書き換えられようとしていたのだ。
100人いた同期生が半分以下に
平日の練習は別々。週末の練習と大会は本校と合同という特殊なスタイルで今中は才能を磨いていった。昭和の高校野球はスパルタが常識だった。100人近くいたという同期生は、5月には半分以下に減っていた。
「おっさん(山本監督)はPLでも西田(真二、のち広島)さんや西川(佳明、のち南海)さんもそうだったように、左投手が好きだったんだと思います。そりゃ練習は厳しかったですよ。今でも思い出したくないくらいに。でも、のちのちプロに入って役に立ったことが多かった。その時はしんどくてわからなかったことも、プロに行ってから意味がわかったんです」
「体」で覚えた投球の術
今中が生涯、投手として忘れなかった山本の教えは、正しいステップと投球のテンポだったという。毎日の投球練習ではアウトステップやインステップにならないよう、帽子やノックバットを地面に置き、40分で240球、つまり10秒で1球のテンポを体で覚えさせられた。1日240球など、今の指導者が命じたら即刻、虐待認定されるところだが、当時は数をこなして覚えるのが最短ルートであった。
「サンダイ(産大)に今中あり」
その名が一気に広まったのは1年の秋季府大会だった。立浪和義、片岡篤史、野村弘樹、橋本清。のちにプロで活躍するメンバーを投打の柱に据えたPL学園と準々決勝で戦い、あと一歩まで追い詰めた。0対1での惜敗。もし今中が勝っていたら、立浪たちの翌春のセンバツ出場の道は断たれており、春夏連覇もなかったことになる。