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まさか…「大阪桐蔭」初陣は公立校に初戦敗退「第1期生」今中慎二が振り返る“常勝軍団”の黎明期「100人いた同期生が5月には半分以下に」
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byNanae Suzuki
posted2023/08/02 11:01
あの強い「大阪桐蔭」が今夏は見られない
「打倒PL」の一念で…
「もうおっさんの打倒PLへの思いは、ものすごかったですよ」
結果を残しながら去ることになった、学園への複雑な思い。絶対王者を倒さなければ、甲子園はないという現実。山本監督のすさまじい執念は、結果として実を結ぶことはなかった。
初めての夏は公立校に初戦敗退
逸材をそろえた今中たちの代は、2年夏も準々決勝で敗退。春に校名が「大阪桐蔭」となり、その一期生として臨んだ最後の夏は、あろうことか初戦で公立校の茨木高に不覚を取った。
新校名で指揮を執ることなく、山本は学校を去っていた。しかし、念願の甲子園出場よりも先にドラフト1位選手が生まれた。88年秋のドラフト会議で、中日が今中を1位指名したのだ。夏の結果にも評価は不変。そのスケールの大きさは、すぐにプロでも証明された。
「結局、自分は甲子園には行けませんでしたけど、卒業する時には先生にはずいぶん感謝されました。ドラフト1位で入ってくれたおかげで、春にはたくさんの有望な新入生が入ってくれるよ。ありがとうって。まあ、あの頃はこんなに強い野球部になるとは思いもしなかったですよね。そもそもPLがなくなる(野球部が休部)なんて……。球場で会っても、後輩のことは気になりますよ。あちこちにたくさんいますけど、姿を見ればあいさつにも来てくれるしね」
幻の最強世代。今中が卒業した春に入学、入部したのが萩原誠たちだった。2年後に初めて甲子園の土を踏み、一気に深紅の大優勝旗を持ち帰る。30年後には2度の春夏連覇を成し遂げ、負けたというニュースが全国を駆け巡る。そんな絶対王者の黎明期である。
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