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「やはり七冠は無理だ…」藤井聡太七冠で思い出す27年前「羽生はすっかり鬼になっていた」“風邪気味”だった羽生善治25歳が七冠独占した日
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2023/06/09 17:28
1996年2月15日、史上初の七冠独占を報じる新聞を読む羽生善治(当時25歳)
神戸に住む谷川は王将戦の第1局で先勝した5日後、この厄災に見舞われた。羽生は谷川が被災したと知り、対局は延期になるだろうと考えたという。だが、谷川には延期してもらうつもりはなかった。震災発生から3日目の朝に妻の運転する車で神戸を脱出、11時間かけて大阪のホテルにたどり着くと、翌日には米長邦雄との順位戦で快勝する。そして、そのまま日光に移動して羽生との第2局にのぞみ、2勝目を果たした。
谷川はのちに振り返って、《乱暴な言い方をするなら、「羽生さんに負けて王将を取られたって、別に命を取られるわけじゃないし……」という心境になれた。いくら羽生善治が強いとは言っても、やはり地震のほうが怖かったですからね》と語った(『SAPIO』1996年7月24日号)。
結局、七番勝負は3勝3敗で第7局までもつれこむ。谷川からすれば、羽生は因縁の相手であった。谷川は1983年に当時最年少の21歳で名人を獲得し(藤井聡太はこの記録も今回更新した)、一躍脚光を浴びた。七冠を目指すと宣言したのも彼が最初である。それは1992年、前年に防衛した竜王の就位式のことであった。同年中には王将も奪取して四冠となった彼が、今後タイトルを争う相手は彼しかいないと名指ししたのが羽生だった。その言葉どおり、それからというもの谷川は羽生と誰よりも多くタイトル戦を争うことになったのだが、1992年の竜王戦以来、7連敗を喫してしまう。それゆえ、羽生に七冠制覇まであと一歩と迫られたのも自分に責任があると考えた彼は、こうして戦う機会を得たいま、自ら決着をつけるしかないと思って最終戦にのぞんだのだった。
「やはり七冠は無理だ…とあきらめかけた」
3月23日から翌日にかけて行われた第7局は、まさに両者譲らずの死闘となる。76手で千日手(一局のあいだにまったく同じ状態が4回現れること)となる。だが、このあと、先手と後手を入れ替えての指し直し手でも、40手目まで先の千日手の将棋とまったく同じ手が繰り返された。この勝負は永久につかないのではないかとささやかれた41手目、ようやく谷川が違う手を指して未知の局面に持ちこむと、激戦の末、111手で制した。
こうして羽生は七冠達成を逃したが、けっして谷川の気迫に押されたわけではなかった。対局後の手記では次のように書いている。
《谷川さんは第二局の前に行われた順位戦にも出たでしょう。谷川さんの気力は、正直言ってすごいなあと思いました。そういう状況になってみないとわからないけれど、私なら、今度のような地震なら、対局を延ばしてもらったと思うんです。ただ、(中略)そのことと勝負は全然関係ありません。勝負が始まってしまえば、それは気になりません。棋士はそれぞれにいろいろな問題を抱えてるわけでしょう、対局になればそれは忘れてやります》(『文藝春秋』1995年5月号)