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Jリーガーから弁護士へ“華麗なる転身”も…「やっぱりサッカーで成功したかった」J開幕バブルを知る男の30年後の本音〈同期は天才・礒貝〉
text by
栗田シメイShimei Kurita
photograph byJ.LEAGUE
posted2023/04/12 11:00
Jリーグ開幕元年にガンバ大阪へ入団した八十祐治は、引退後に弁護士へ転身。Jリーグ30年の歴史で弁護士バッジをつけるのはたった一人
時はJリーグバブルの前夜。その大きな波の中に、八十もいた。当時の指揮官はレジェンド・釜本邦茂で、チームメイトには本並健治、和田昌裕、久高友雄、永島昭浩ら錚々たる名前が並ぶ。同期入団には天才・礒貝洋光や選手権でヒーローになった松波正信らがいた。
わずか数カ月で当事者たちですら困惑するほど、環境は様変わりしていった。多くは異常なまでの過熱ぶりに戸惑いつつも、変化を受け入れていく。だが八十だけは、どこか平常心だった面がある。
「Jリーグ開幕前は、練習場にせいぜい数人ファンの方がいるくらい。ただそれが開幕以降は日に日に増え、何百人とかの出待ちの列が出来ていくようになりプレゼントやサインの嵐。チームメイトもブランド物に身を包み、車も外車や国産の高級車ばかり。とにかくピッチ内外でもみんな“華”があり、それでいてやんちゃ。そんな中で私だけ、車が日産の『ブルーバード』だったんです。ついたあだ名は『ブルーバード』(笑)。でもチームで私が一番下手でしたから、とにかくサッカー以外のことに目を向ける余裕がなかったんです」
志半ばで引退…会社に残る選択もあったが
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入団後、すぐにプロの壁にもぶつかった。ベンチ入りを果たすもなかなか試合には絡めず、焦りも生まれた。だが、焦れば焦るほど負のスパイラルに陥っていく。ルーキーイヤーはリーグ3試合に出場したが、2年目は猛アピールも実らずベンチ入り止まり。試合出場がないままガンバから放出された。
その後は神戸に活躍の場所を求めたが、リーグ開幕直前に左足首の靭帯を切る全治4カ月の大怪我を負うなど、思うような結果は残せなかった。
たどり着いたJFLの横河電機では総務部で会社員をしながら、必死にサッカーにしがみついた。だが、チームの若返り、子供が生まれたという事情もあり、次第に別の道を考えるようになった。会社に残るという選択肢もあった中で、八十が選んだのはあえて弁護士を志すということだった。
「大学の同期は社会人として一流企業でバリバリ働いていて、ガンバの同期は華やかな舞台で活躍している。私は会社員として、朝から17時過ぎまで働き夜は18時~21時まで練習。仕事も雑用ばかりで、周りからは『君はサッカーしかしていないから大した仕事は出来ないでしょ』と言われ、すごい悔しい思いもした。土日は遠征があるし、子供もいたのでキツかったですよ。
ただね、私はサッカーが好きすぎて辞められなかったんですよ。いざサッカーを辞めるとなった時、今後の人生のモチベーションを失ってしまった。30年間、今と同じ仕事は出来ないとも感じていたんです。それでサッカーと同じくらいの熱量で出来る仕事を考えた時、見返してやろうという思いもあり、司法試験を受けることにしたんです。当時はどれだけ難しいかもよく知らずに……」