- #1
- #2
野球クロスロードBACK NUMBER
「だからみんな桐蔭を選ぶ」大阪桐蔭OB・平田良介が明かす“西谷監督の素顔”「ナゾの言葉『どぅい』を持ってるんです」…その意味とは
posted2023/03/27 11:01
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by
Hideki Sugiyama/JIJI PRESS
昨年末にプロ野球選手を引退した元中日の平田良介は、大阪桐蔭時代の恩師、西谷浩一に報告の電話を入れた。
わかってはいた。それでも、あの穏やかな関西弁を聞くと心が落ち着く自分がいる。
「これから、なにするんや?」
「まだ細かくは決まってなくて。解説のお仕事だったり、野球に関わっていきたいなって思っているんです」
「そうか。なにかあったら電話しておいで。あと、グラウンドにも顔出しに来いよ」
丁寧に電話を切る。平田はつくづく思う。大阪桐蔭に行かなかったら、プロ野球選手にもなれなかったかもしれないし、なにより西谷先生と出会えなかったな――と。
平田良介の心を動かした西谷浩一の熱量
小学1年生から少年野球チームの関目ジュニアスターで野球を始めてから、プロ野球選手になることだけを夢見てバットを振った。3年生にもなると野球漬けの毎日となり、冬休み期間中の恒例である家族との3泊4日のスキー旅行以外は、子供らしい休日を過ごした記憶があまりない。
中学生になると、そんな生活が当たり前になった。大阪都島ボーイズ時代は全国大会の出場経験はなかったものの、ショートだった平田は県外の甲子園常連校からも誘われるくらいの選手となっていた。
そのひとつが中国地区の強豪校で、「甲子園からプロへ」と目標を設定していた平田の気持ちは、そちらに傾きかけていた。
スポーツに限らずとも高校の実績とは、絶対的なブランド力を発揮する。
その強豪校は、当時で甲子園出場10回以上、上位に食い込むほどの実績もあった。かたや大阪桐蔭は、1991年夏に甲子園初出場初優勝を果たしてから長らく全国の舞台から遠ざかり、2002年夏に2回目の出場と発展途上だった。平田がそんなチームを選んだ大きな決め手となったのが、西谷の存在だった。