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武藤敬司の相手は「最初も最後も」蝶野正洋だった…1984年、2人のデビュー戦を撮影したカメラマンが紐解く「天才レスラーの真実」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2023/02/24 17:30
「昭和プロレスの終焉。さらば、ムーンサルト」2023年2月21日、武藤敬司は東京ドームで引退試合を終えた
「もう限界なんてとっくに過ぎていた。しかし限界を超えてもなお輝き続けた夢物語」
古舘伊知郎さんは「さよなら、ムーンサルト」とリング上で610文字の詩を読み上げた。
「入門から半年余りで、あの月面の奥義を身につけて、気が付けばアメリカマット界を席巻していた」
1984年10月5日、蝶野正洋との「ダブルデビュー戦」
「あっという間」と武藤は言った。
1984年10月5日、新日本プロレスは長州力らの大量離脱に遭い、越谷市立体育館には予定されていたレスラーが現れなかった。テレビマッチなのに試合カードが確定しない。そんな中、26人で9試合が組まれたが、前座の第1試合で急きょ実現したのが、武藤敬司vs.蝶野正洋だった。
まさかの同時デビュー。今の2人の注目度からすれば好カードだろうが、当時はそうではなかった。同期の橋本真也は1カ月前にすでにデビューしていたが、武藤はまだ早いと思われていた。蝶野に至っては、もっと後だったはずだ。テレビマッチでシリーズの開幕戦、しかも大量離脱事件の直後ということで、取材陣は多くいた。だが、この試合の映像はちゃんと撮影されていない。カメラテストで少し回っていたため、試合の一部が偶然残っている程度だという。
当時、デビュー戦は多くの場合、地方のノーテレビの日に行われるのが普通だったから、武藤と蝶野のダブルデビュー戦が見られたのは幸運だった。柴田勝久がレフェリーだった。試合は武藤が逆エビ固めで勝利したが、筆者の手元にも数枚のカットが残っているだけだ。
期待された1986年10月の1回目の海外遠征からの帰国は、ごく普通だった。武藤が帰国したというので、道場でのトレーニングや多摩川の土手での写真撮影にも行った。青空に拳を突き上げた姿に、次の時代を約束された男だと感じた。だが、後楽園ホールで行われた「スペース・ローン・ウルフ」としてのテレビマッチで、武藤は藤波辰爾とシングルで戦ったものの十分な成果を残せなかった。
期待が大きすぎたのか、と思ったりもした。プロレスは難しい。