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武藤敬司の相手は「最初も最後も」蝶野正洋だった…1984年、2人のデビュー戦を撮影したカメラマンが紐解く「天才レスラーの真実」
posted2023/02/24 17:30
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
武藤敬司が、長いプロレスラーとしてのキャリアにピリオドを打った。1984年10月5日、越谷市立体育館でデビューした男は、2023年2月21日、東京ドームで最後の試合を終えた。
よく武藤は「天才」と言われるけれど、筆者はそうは思っていない。武藤はムーンサルトでもなんでも器用にこなせた。でも、武藤が武藤になるには、地道な積み重ねがあった。武藤の飄々とした表情や、あっけらかんとした言い回しがまるで何もしていないように感じられて、「天才」という印象が広まったのかもしれない。
「試合の中の悔いなんかすげえあるよ。もう少しできなかったかなって、次がないのに、まだ自分で引退するって実感できていないのかもしれない。こうしときゃよかったのにとかさ、細かいこといっぱいあるんだよ」
武藤は引退試合後の記者会見で笑ったが、武藤流に言えば次の「作品」を完成させるための反省が、いつも存在していたということになる。21歳で新日本プロレスに入門した若者は、見えないところで努力をしていたはずだ。
20年前から階段も満足に下りられず…
1カ月前、武藤は横浜アリーナでのムタの引退試合で両足ハムストリングの肉離れを起こした。医師には6週間かかると言われたが、痛み止めを打って引退試合に臨んだ。もっと強いものを打っていたら、ムーンサルトもできたかもしれない。
だが、2021年6月、人工関節を入れた後、さいたまスーパーアリーナで禁断のムーンサルトを飛んでしまった後の「家族や医師の怒った顔」が武藤を思いとどまらせた。
「飛ぶガッツがなくてね。昔、『プロレスのためには足の1本や2本あげてもいい』って言ったことがあるんだけれど、やっぱりあげられなかったな。ちょっとオレは嘘つきだよ。あそこで躊躇しちゃったよ」
リング上で観客から見られていれば、不思議なくらい動けてしまう。歩くのも大変なのに、花道なら平気で歩けてしまう。そんなプロレスラーの性がいつも首をもたげる。実際には約20年前から、階段も満足に下りられなかった。