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戦力外→引退後は「1年くらい家に閉じこもって…」元近鉄ドラ1が語る“接骨院の経営者”の今「引きこもることも人生には必要です」
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byMakoto Okano
posted2022/12/27 11:03
元近鉄の高柳出己さん。戦力外通告を受けた元プロ野球選手が第二の人生に向かう時、最も大切なことは何か?
仰木監督は「人を動かすのが上手」
9月6日の日本ハム戦は一気飲みで『9番・ショート』を勝ち取った安達俊也が8回に均衡を破る1号ソロを放ち、同じ理由で『8番・キャッチャー』の光山英和が先発の野茂英雄を好リードして完封勝ちに貢献。当時のスポーツ紙を見ると、翌7日にルーキーの品田操士が登録抹消になっている。品田は0対22で西武に大敗した試合で、14失点を喫していた。苦いデビュー戦を忘れさせようという仰木の親心から、ビールの一気飲み大会が始まったのかもしれない。
「仰木さんは本当に選手を気持ち良くプレーさせてくれた。人を動かすのが上手でした。頭ごなしに命令されても素直に動けないじゃないですか」
悩んだ右肩痛…戦力外通告と未練
仰木退任の1992年、高柳は自己最多の8勝を挙げる。契約更改では「来年2ケタ勝って優勝したら1億円や」と言われた。しかし、翌年右肩痛に襲われ、6月15日の西武戦を最後に二軍落ち。その後の2年間も一軍で登板なしに終わり、1995年オフに近鉄から戦力外通告を言い渡された。
スカウトへの転身を打診されたが、現役への未練を断ち切れない高柳は、ロッテの入団テストを受けて合格。オープン戦でまずまずの結果を残したが、開幕一軍には選ばれず、二軍暮らしが続いた。
「体全体が痛くてしょうがないんですよ。家では全身に湿布を貼っていて、子供が『お父さん臭いから寝られへん』って言うほどでした。毎朝起きたらすぐに肩やヒジをアイシングしていたけど、一向に良くならない。もう限界でした。いくら気力があっても、人間は体の痛みには勝てない」
シーズン終盤の9月、二軍の投手コーチに「人が足りないからバッティングピッチャーやってくれないか」と頼まれたが、「勘弁してもらえないですか。もう肩が限界なんです」と訴えた。
「僕だって、できるなら投げたいですよ。でも、痛み止めを飲んでも治まらないくらいの状態だったから断ったんです。そしたら、二軍監督に呼び出されて『チームのためにできんのか!』と説教された。思わず、『俺は自分と家族のためにやってんだよ!』とブチギレてしまいました」