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“偏差値77の最難関”東大医学部と東大野球部を両立させたスゴい人生…20年間で4人しかいない天才が明かす“挫折”「オレ野球部やめるよ…」 

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沼澤典史

沼澤典史Norifumi Numazawa

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/12/26 11:05

“偏差値77の最難関”東大医学部と東大野球部を両立させたスゴい人生…20年間で4人しかいない天才が明かす“挫折”「オレ野球部やめるよ…」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

2007年、20年ぶりの東大医学部所属の野球部員となった安原崇哲。その安原が「彼は大変だった」と認める医学部の後輩とは?

「野球部の全体練習も、医学部の必修授業も午前中だった」

 東京六大学野球のルールでは、選手として活動できるのは4年間の8シーズンだが、それは1年生~4年生に限らない。たとえ2年生から入っても5年生まで出場できる。東大に合格後、野球部関係者からこの規定を聞かされたとき、紺野のパズルのピースが一気にハマったわけだ。1年目は野球部に入らずに勉強に専念し、好成績を納めて医学部進学への道筋をつけたら、晴れて2年から野球部に入るというプランである。

 このような方法で野球部に入部したのは、紺野が初だという。紺野は、1年生のときに野球部の見学に行って自分のプランを披露し、「医学部に行く勉強をして、来年野球部に入ります」と先輩に告げ、見事に入部。しかし、後にその先輩からは「お前は絶対来ないと思っていた」と驚かれたそう。それほどレアなケースだったのである。

 もっとも、野球部は入るだけでは終わりではない。多くの部員たちとのポジション争いに勝たなければ、スタメン出場はできない。そのためには誰もが多くの時間を練習に割くわけだが、医学部は4年生から講義や試験がハードになっていく。前出・安原は野球部内での最高学年のときに、この医学部の壁にあたった。一方の紺野の場合は、野球部3年目という伸び盛りを迎える時期だ。医学部と野球部を満足のいくレベルで両立させるのは、並大抵の苦労ではなかったろう。

「東大野球部の練習は、午前中が全体練習で午後が個人練習。僕は外野手だったので、全体練習に出られないと、他の選手との連携ができない。監督やコーチは、基本的に午前の練習を見て各選手の状況を把握しているから、試合に出るには、ここでアピールしなくちゃいけない。しかし医学部の必修の授業は、午前中に入ることが多いので、時間のやりくりには苦労しました。医学部のテストも大変でしたが、なんとか直前に詰め込んで、余った時間は練習に充てていました。しかし4年生の後半になると病院実習が始まりますから、これは休めない。なにしろ自分の担当の患者さんがいますからね。練習時間はかなり少なくなってしまいました」

実家に電話『おれ野球部やめるよ』

 紺野は主に外野手として、代打や守備固めでリーグ戦7試合に出場。スタメンを目指してはいたが、およばなかった。

「2年生の新人戦では5番でスタメン、ヒットも打ったんです。このままいけばレギュラーになれるかも、と思った時期もありましたが、やはり実力はおよびませんでしたね。仮に医学部以外の学部に行っていてしっかり練習ができたとしても、能力的に難しかったと思います。医学部は言い訳にはならないと、自分でも納得しています」

 いまとなっては、いさぎよくこう振り返る紺野だが、講義や試験が忙しくなった4年生(野球部3年目)の前半は、練習に満足に参加できず、なかなか試合にも出られなかったため、退部を考えたこともあったという。

【次ページ】 実家に電話『おれ野球部やめるよ』

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