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東尾理子(46歳)が“東尾修の娘”を自覚した日「陰口、無視…やっかみはありましたね」「プロになりたい、なんて簡単に言えなかった」
posted2022/09/19 11:02
text by
郡司倫Rin Gunji
photograph by
Hirofumi Kamaya
1975年、太平洋クラブライオンズ(現・埼玉西武)のエース・東尾修は23勝を挙げ、自身初となる最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得した。そんなキャリアハイともいえる充実のシーズンを送ったその年のオフ、長女の理子は誕生した。
ライオンズが本拠地を構えていた平和台球場のある福岡県で幼少期を過ごした東尾理子(以下、東尾)は、当時を「おてんばだった」と振り返る。父のDNAを受け継いだ東尾は小さいころから運動神経が良く、テニスやスキーに励んでいた。
おてんば少女がゴルフに出会ったのは小学3年生の頃。当時アマチュアゴルファーとして地元の大会に出場していた母に連れられて、練習場に通い始めた。
「父も現役引退後に日本アマチュアに出場したほどのゴルフ好きですが、ゴルフとの出会いは母に連れられて練習場へ通っていたことです。そのとき、母はティーチングプロのレッスン予約を入れるんですよ。でもそれは、ゴルフを教えてもらうのではなく、私のお守り役として(笑)。
はじめは練習場のなかで(ティーチングプロに)鬼ごっことかして遊んでもらっていたんですが、せっかくだから球を打ってみようか、と。ジュニア用のクラブではなく、練習場にあった大人用のクラブを切ってお手製のクラブを作ってもらい、それを使っていました。テニスもプレイするのは楽しかったんですけど、練習が終わった後の球拾いがイヤでイヤで。打ちっ放しのゴルフのほうがいいなと思った記憶があります」
「東尾修の娘」を意識した日
「中学までほとんど真面目に練習していなかった」という東尾だが、ゴルフでもめきめきと頭角を現し、すぐにジュニアの大会に出場するようになる。このとき初めて意識させられたのが、自身が“東尾修の娘”であるということ。
試合に出るとメディアから取材を受ける機会が増え、中学時代に出場した大会では成績が振るわなかったにもかかわらず、新聞で優勝者よりも写真が大きく掲載されたこともあった。
「周囲からのやっかみはありましたね。陰でイヤなことを言われたり、無視されたり。そのときに、人の言動はコントロールできない、ということを知りました。だから、まずはゴルフを上手くなって、文句を言われないような成績を出そうと。でも当時から『東尾』という名前が知られていないところに行きたいと思っていました」