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“マイノリティの星”セリーナ・ウィリアムズ40歳はテニス界をどう変えた? 大坂なおみ「ウィリアムズ姉妹がいなければ、今のわたしは存在しない」
text by
内田暁Akatsuki Uchida
photograph byGetty Images
posted2022/09/17 17:03
9月2日、全米オープン3回戦でトムヤノビッチに敗れ、コートを去ったセリーナ
セリーナに自分の姿を重ねたトムヤノビッチ
2万人超えの観客が相手を応援する大逆境のなか、3時間超えの死闘を制したトムヤノビッチは、「試合中は勝利を渇望し続けていた」という。
だが、敗戦後のセリーナがファンに別れを告げ、涙ながらに両親や姉に謝意を述べる姿を見た時、彼女は「自分自身をセリーナに重ねていた」と言った。
オーストラリア国籍のトムヤノビッチとセリーナでは、一見、共通項は薄いように思える。だが、クロアチアに生まれ、テニスを人生の成功のカギとして家族で肩を寄せ合ってきた彼女の足跡は、本質の部分でセリーナと通底していた。
「銃声を耳にしながら」テニスの腕を磨いた少女時代
セリーナとビーナスのウィリアムズ姉妹の生い立ちと功績は、アメリカやテニス界では多くの人々が知るシンデレラストーリーだ。アメリカでも有数の治安の悪い町で、本人曰く「銃声を耳にしながら」公営コートでテニスの腕を磨いた少女時代。コーチは、テニス経験は皆無の父。「女性でも大金を稼げるスポーツ」であることが、テニスを選んだ唯一の理由だった。
セリーナが初めて全米オープンを制したその頃、当時6歳だったトムヤノビッチはクロアチアでテニスを始めた。より良い環境とテニスでの成功を求め、一家全員でフロリダに移り住んだのは、彼女が13歳の時である。
20歳の頃、オーストラリアのテニス協会から支援と引き換えに国籍変更のオファーを受けたトムヤノビッチは、最終的にその申し出を受けた。水面下で進められていた移籍話が表面化した時、彼女は母国から多くの批判を受けたという。
誹謗中傷に心を痛めたこの当時、トムヤノビッチはウィリアムズ一家の姿を会場で目にしては、自分たちに似たものを感じたと述懐した。
「私も、ある部分でセリーナと同じだった。信頼してくれる家族と夢、そして夢を叶えるための意志に、テニスへの情熱と愛情。それ以外には、何もなかった……」と。
“マイノリティの星”セリーナとその“後継者”たち
17歳で全米オープンを制し、以降、23年に渡り女子テニス界の中枢に君臨したセリーナは、“マイノリティの星”と呼ばれてきた。