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『オールドルーキー』顔負けのドラマ性… “ブラジルで運営クラブが2年連続昇格”三都主アレサンドロの引退後がスゴい〈両親・妻に直撃〉
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2022/07/03 11:02
自身の運営クラブの2年連続昇格に喜ぶ三都主アレサンドロ
「地元の農業組合に入社し、運転手として働いたんだ。組合が少年チームを立ち上げ、頼まれて長年、子供たちを指導した」
――三都主は、いつどのようにしてボールを蹴り始めたのでしょうか?
「赤ん坊の頃から、いつも私の試合に連れて行って一緒にピッチに入った。歩けるようになるとすぐに、家の中、そして路上でボールを蹴り始めたよ。12歳のとき、グレミオ・マリンガのU-13に入った。同じ頃、農業組合の少年チームにも加わり、私が指導した」
――当時はどんな選手だったのですか?
「小さくて痩せていたが、スピードがあり、柔らかいテクニックを持っていた。『地道に努力をすれば、きっとプロになれる。それも、私よりずっと優れた選手になれる』と確信していた」
――16歳のときに明徳義塾高の関係者がブラジルを視察に訪れ、彼のプレーを見て気に入り、留学を勧めたそうですね。
「U-17に在籍していたが、時折、トップチームの練習にも参加していた。当時、日本ではJリーグが創設され、ジーコらが活躍していてブラジルでも話題になっていた。本人は日本行きを大きなチャンスと捉えており、私も賛成だった。しかし、マリアが大反対していた」
母親が当初、日本行きを反対した理由は?
ここで、我々の話を横で聞いていたマリアさんに尋ねた。
――マリアさんが当初、日本行きを反対した理由は?
「まだ16歳だし、日本はとても遠い国。行かせることはできない、と思っていました」
――結果的に賛成したわけですが、なぜですか?
「明徳の人から、『スポーツ特待生として迎え、選手寮で生活できる。それに、高校卒業後にプロになれなかったとしても、特待生として日本の大学へ入れる可能性がある』と言われたんです。先進国の日本で高校へ行けて、もしプロになれなくても大学に進学できるなら悪い話じゃないわ、と考えて……(笑)。それで、賛成に回ったんです」
――日本は、言葉、気候、食事、文化、習慣、メンタリティーなどすべてがブラジルと大きく異なります。三都主はとても戸惑ったはずですが、来日直後、何と言っていましたか?
「(ブラジル時間の)毎週日曜日の朝、5分だけ向こうから電話がかかってくることになっていたの。そのとき、アレックスは『大丈夫だよ』とか『何も問題なんてないよ』と繰り返していた」
――でも、子供が口でそう言っていても、もし苦しんでいたら親ならわかりますよね?
「そうね。でも、あの子は決して泣き言を言わなかった。『日本で高校を卒業して、必ずプロになる』という強い気持ちを持っていて、『少々問題があっても、絶対に挫けない』と心に決めていたと思うの」
日本の人たちに助けていただいたお陰で今日の息子がある
――結果的に、三都主は日本で念願のプロ選手になり、Jリーグで活躍し、日本代表に選ばれてW杯に二度出場する、という輝かしいキャリアを築きました。そして、21年後、日本で作った家族を連れてブラジルへ戻り、今、ここマリンガでフットボールに関する仕事をしています。おふたりはこのことをどう思いますか?
(ウィルソン)「子供の頃からの夢を、すべて叶えた。素晴らしい人生を送ってくれていると思うよ」
(マリア)「あのとき明徳の関係者に誘ってもらい、その後も多くの日本の人たちに助けていただいたお陰で今日の息子がある。彼を暖かく迎え、また導いてくれた日本の方々に心から感謝しています」
三都主の両親からは、息子の挑戦を常に見守り、陰になり日向になり支えてきたことへの自負と喜びが感じられた。第2回では三都主の妻・直美さんに話をじっくりと聞き、家族でどのような人生を歩んでいるかを聞いた。
<#2につづく>
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。