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『オールドルーキー』顔負けのドラマ性… “ブラジルで運営クラブが2年連続昇格”三都主アレサンドロの引退後がスゴい〈両親・妻に直撃〉 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byHiroaki Sawada

posted2022/07/03 11:02

『オールドルーキー』顔負けのドラマ性… “ブラジルで運営クラブが2年連続昇格”三都主アレサンドロの引退後がスゴい〈両親・妻に直撃〉<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

自身の運営クラブの2年連続昇格に喜ぶ三都主アレサンドロ

「そう思うよ。でも、実はテクニックは大したことなかった。この点は息子に叶わない」

――ゴイアスではどうだったのですか?

「1973年前半まで11年余りプレーした。この間、3度、州選手権で優勝した」

――当時、どんな選手と対戦したのですか?

「ガリンシャがいたボタフォゴと対戦したよ。また、私は故障していてプレーできなかったが、チームはキング・ペレがいたサントスとも対戦した」

――ガリンシャ(1953年から65年までボタフォゴでプレー)は、現在に至るまで「ブラジルサッカー史上最高の右ウイング」と謳われる名手です。実際に対戦した印象は?

「とてつもないスピードがあり、フェイントの切れ味がすごい。右足のアウトサイドでボールを押し出して縦へ抜けるドリブルが有名だが、縦へ出ると見せかけてカットインすることもあった。

 しかも、彼は両足がひどく曲がっていて、しかも長さがかなり違う(右足の方が6cmも長かった。幼少時に患った小児マヒのためとされる)。そのせいもあって彼のドリブルは独特で、止めようがなかった」

息子がプロになり、ジーコ監督の下でW杯に出るとは

――ペレ(1956年から1974年までサントスでプレー)はどうでしたか?

「とても人間技とは思えないようなプレーをしていた。ゴイアスとの試合で、ゴール前にハイクロスが上がり、高々とジャンプした。誰もがヘディングシュートを叩き込むと思った瞬間、胸でボールを止め、右足のボレーで叩き込んだ。敵も味方も、皆、唖然としたよ。

 完璧なテクニックと驚くべきスピードを駆使して、自分のアイディアをピッチの上で表現するんだ。天才としか言いようがない」

――ゴイアスを退団してからは?

「1973年の後半、アメリカ(リオ)でプレーした。チームに、ジーコの兄エドゥがいた。彼は、『ジーコより上』と言う人がいるくらいの名選手だった。彼の家へ遊びに行って、当時、フラメンゴからデビューしたばかりのジーコとも会った。

 後に自分の息子がプロ選手になり、日本国籍を取得して、ジーコが監督、エドゥがコーチを務める日本代表の一員として(2006年)W杯に出場するとは夢にも思わなかった」

――その後は?

「1975年にグレミオ・マリンガへ移籍した。このときにマリアと知り合い、翌年に結婚した。そして1977年にアレックス(三都主)が生まれた。この年、パラナ州選手権で優勝。1978年からアナポリーナ(ゴイアス州)でプレーし、1984年、39歳で引退した」

赤ん坊の頃から、いつも私の試合に連れて行って

――17歳から39歳まで23年間、現役を続け、引退後もマリンガに住み続けているわけですね。引退後は?

【次ページ】 母親が当初、日本行きを反対した理由は?

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