Jをめぐる冒険BACK NUMBER
元日本代表10番・岩本輝雄が語る“94ベルマーレ旋風”…ヴェルディにボコられたJリーグ初陣、実は鹿島ジーコから誘われていた?
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byJ.LEAGUE
posted2022/04/08 17:02
Jリーグ昇格1年目、「湘南の暴れん坊」と恐れられたベルマーレ平塚。その象徴とも言える存在がレフティーの岩本輝雄だった
前年93年10月、初のW杯出場を目指した日本代表は、ドーハの悲劇によって夢を絶たれた。ハンス・オフト監督は退任し、後任には元ブラジル代表監督のファルカンが就いた。
ファルカンは新任の外国人監督らしく、前任者のメンバーを踏襲せずにメンバーを大きく刷新した。そのお眼鏡に適ったのである。
「正直、選ばれるとは思っていなかったね。ロッカールームで着替えているときにクラブの人から『代表入ったから』って言われて驚いたけど、みんなも『えー!?』って言ってた(笑)。その頃、あまり活躍できてなかったから、『俺でいいの?』って。入るとしたら、ナラだろうと思っていた」
当時、日本代表の泣き所は左サイドバックだった。
このポジションの第一人者である都並敏史は93年夏に疲労骨折し、10月に行われたアメリカW杯アジア最終予選のメンバーにこそ選ばれたものの、出場できる状態ではなかった。都並の穴は、左サイドバックが本職ではない三浦泰年、勝矢寿延が埋めた。
岩本は、実はオフトジャパンのメンバーに入る可能性もあった。
「都並さんが間に合わない状況だったから、下のリーグでプレーしていた俺を代表のスタッフが何回も見にきて。スペイン合宿への打診もされたんだけど、自信がなかったから断ったんだ。ケガしていたのもあったけど、自分がそんなレベルとは思えなかったから」
もし、断らなかったら、最終予選直前に行われたアジア・アフリカ選手権のコートジボワール戦で代表デビューしていたか、それともスペイン合宿で見切られていたか……。
いずれにしても、それから半年後の94年5月、岩本は日本代表の6番のユニホームに袖を通す。左サイドバックとしてオーストラリア戦、フランス戦で連続スタメンを飾った。
「Jリーグでは緊張しなかったのに、代表ではめちゃめちゃ緊張したのを覚えてる。オーストラリアも強かったけど、なんとか自分のサイドをやられないで済んだ。ただ、フランスは鬼強かったよ」
フランスはほぼベストメンバーで来日し、日本戦のスタメンには、ディディエ・デシャン、マルセル・デサイー、ジャン・ピエール・パパン、エリック・カントナ、ダビド・ジノラ、ユーリ・ジョルカエフといったスター選手が顔をそろえた。
ゲームは終始、フランスペースで進み、日本は小倉隆史が一矢報いたものの1−4で大敗。岩本も得意の攻撃参加を封じ込まれた。
「相手の右ウイングはずっと張っているから、気になって攻撃参加できなかった。マスコミにはすごく叩かれた。でも冷静に考えれば、相手は予選で敗退したとはいえ、W杯優勝も狙えるメンツ。こっちはJリーグでプレーして2カ月くらいなんだよ。無理だよね(笑)」
合宿中、憧れのカズと映画館へ…
読売クラブの試合を見に行っていたように、岩本にとってカズは憧れの選手。そんな選手と一緒にプレーできるのだから、代表は夢のような場所だった。
広島での合宿中にはカズと2人で映画を見に行く機会があった。
「すぐに周りにバレて、気がついたら、ファンの方に囲まれちゃって。なんの映画を見たのか、もう覚えてないけど、カズさんがお金を出してくれて、『テル、お釣りもらっておいて』と言って先に行くんだよ。いらないのかなと思ってお釣りをポケットに入れたら、あとで『お釣り取るな』と言われたのを覚えてる(笑)」
現役の日本代表選手が活動中に街中をぶらぶらするなんて、今では考えられない話だ。
7月のアシックスカップのガーナとの2連戦では2列目に入り、2戦目でゴールを奪うと、10月の広島・アジア大会のメンバーにも選出された。
その合宿初日のことである。スタッフから指示されたホテルの部屋に入った瞬間、岩本は「あ、間違えた」と思った。
「10番と入ったリュックが置かれていたから、ノボリさんの部屋と間違えたかなって」
しかし、それが間違いではなく、自身にかけられた期待であるということを、岩本はすぐに知ることになる。