Jをめぐる冒険BACK NUMBER
元日本代表10番・岩本輝雄が語る“94ベルマーレ旋風”…ヴェルディにボコられたJリーグ初陣、実は鹿島ジーコから誘われていた?
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byJ.LEAGUE
posted2022/04/08 17:02
Jリーグ昇格1年目、「湘南の暴れん坊」と恐れられたベルマーレ平塚。その象徴とも言える存在がレフティーの岩本輝雄だった
「ナラ(名良橋)は筋肉が凄くて、こんな人いるのかっていうくらい速かった。当時は無口で、部屋で黙々とスパイクを磨いているイメージ。すげえきれい好きで、服がきれいに並べてあって。あと、食堂の牛乳を部屋で飲んでいたから、牛乳瓶がずらっと並んでいた(笑)」
練習後にはコーチの上田に付き添われて居残り練習に励み、左足のキックを磨いた。何もかもが新鮮で、乾いたスポンジのようにすべてを吸収していった。
「ふたつ上に野口幸司さん、3つ上に名塚善寛さんがいて、ナラも含めて優しいし、サッカーもうまいし、男としてカッコいいなって。練習後にはエジソン、宮澤ミシェルさん、元ブラジル代表10番のピッタとピザ屋やコーヒー屋に行って。サッカーの話ばっかだよ。あの頃が一番楽しかったかもね。嫌な先輩もたくさんいたけれど、それも含めて楽しかったな」
毎朝、電車通勤する日々は、入社から半年も経たないうちに幕を閉じた。
ブラジルの名門クラブの監督を歴任したニカノールが7月にコーチに就任すると、出社が免除され、より一層サッカーに打ち込めるようになるのだ。
そのニカノールから、岩本は驚くべき指令を受ける。
「それまで中盤をやっていたんだけど、『左サイドバックをやれ』って。嫌だよ、やったことないし、味方に指示できないじゃんって。でも、後から考えると、サイドバックは前を向けるし、フリーで蹴れるし、ドリブルもできる。そういう狙いがあったのかもね」
左サイドバックは名良橋の定位置だったが、名良橋を右に回して、岩本が左へ——のちにJリーグを席巻する超攻撃的サイドバックコンビ、誕生の瞬間だった。
91年11月にデビューを飾ってポジションを掴むと、1年目の1991-92シーズンはJSL2部で22試合に出場し、7得点をマークする。
J開幕前、ジーコから誘われていた?
そんな岩本には、93年のJリーグ開幕を鹿島アントラーズの一員として迎える可能性があったという。
JSL2部の住友金属工業(鹿島の前身)戦でゴールを決めた岩本に惚れ込んだジーコが、ニカノールに獲得の打診をしたのだ。
「エジソンから教えてもらったんだけどね。でも、ニカノールが断って。ジーコからは2回くらい誘われたな。俺ってブラジル人に好かれるんだよ。ファルカンに代表に選んでもらっているし、トニーニョ・セレーゾにも鹿島に誘われたからね」
充実の1シーズン目を終えた直後、岩本は短期留学のためにブラジルに渡り、ブラジル全国選手権で優勝経験があるグアラニの練習に参加した。
「野口さんとか4人で行ったんだけど、実は行きたくなかった。かかとを痛めていたし、初めてのシーズンを戦い終えて1週間後の出発だったから。向こうでは寮に入れられるし、言葉も分からないし、早く帰りたいなって」
そんな生活が続いたある日、コリンチャンス戦をスタジアムで観戦すると、普段一緒に練習をしているやせっぽちの右サイドバックが活躍してチームを勝利へと導いた。
「20歳くらいの選手なんだけど、こんなに若いのに、こんなに活躍するんだって。で、試合後、その選手が彼女を連れてきて、俺たち日本人も誘ってくれて、ピザ屋でピザを振る舞ってくれたの。試合で活躍して、お金を稼いで、ご馳走する姿がカッコいいなって。こういうふうになりたいな、俺も有名になりたいなって、ハングリーさが出てきた」