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平野歩夢「THA BLUE HERBが好き」は必然だった? ヒップホップとスポーツの“複雑な蜜月関係”《米スーパーボウルも大盛況》
text by
下井草秀Shu Shimoigusa
photograph byAsami Enomoto/JMPA
posted2022/03/03 11:01
競技中にイヤフォンでTHA BLUE HERBを聴いていたことを明かした平野歩夢。五輪の金メダリストでは、マラソンの野口みずきもヒップホップ好きとして知られている
ランDMCがひっくり返した従来の価値観とは?
そもそも、ヒップホップという音楽こそが、20世紀終盤において、スポーツとファッションというカルチャーを接近させた当事者である。
83年にデビューしたランDMCは、それまではお洒落とは見なされていなかったアディダスのジャージとスニーカーをステージにおいて堂々と着用することによって、従来の価値の転倒に成功した。さらに、当時はアウト・オブ・デイトの最たる存在であっただろうエアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」をサンプリングしてリユースすることで、ダサいものがそのダサさゆえに内包する逆説的なカッコよさを表現してみせた。
そして、その名も「マイ・アディダス」というレパートリーを持つランDMCは、アスリート以外では初めてアディダスとサプライヤー契約を結ぶことになる。ストリートカルチャーとスポーツブランドの蜜月は、ここに始まる。後に、藤原ヒロシがナイキとクリエイティブコンサルティング契約を締結するのも、この系譜に位置していると言えるだろう。
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ランDMCの登場の少し前、つまりヒップホップ第1世代のラッパーたちは、70年代のソウルやディスコの時代を引きずった、水商売っぽさの濃い衣装をまとっていた。その時代に人気を得た、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴやコールド・クラッシュ・ブラザーズのメンバーは、とあるインタビューにおいて、自分たちは高級で派手なステージ衣装を着ることを目的に頑張ってきたのに、ランDMCは、その努力の行く先をひっくり返してしまったと苦笑していた。
ヒップホップには、オフビートなユーモアの美学がある。あえて紐をすべて外してアディダスのスーパースターを履いてみたり、ツバに貼られたステッカーを剝がさぬままニューエラのベースボールキャップをかぶってみたり……。
そのセンスに衝撃を受けたのが、和製ヒップホップのパイオニアたちだった。86年、ヒップホップに啓示を受けた近田春夫は、「プレジデントBPM」と名乗り、ラッパーに転向する。
その際、ランDMCに倣い、神保町のスポーツ用品店を隈なく巡ってようやくアディダスのジャージを見つけたものの、当時のアディダスは日本に現地法人を置いておらずデサントがライセンス生産を行っていた。そのため、その商品は日本人の体形を考慮してスリムなフィット感にアレンジされており、向こうのラッパーが着こなすファットな雰囲気からはほど遠いフォルムだったと近田は嘆く。恐らくは、地方の中学生やゲートボールに興じる老人のようなビジュアルになってしまいそうだったのではないか。