Jをめぐる冒険BACK NUMBER
“元同部屋”森保監督へ集まる批判に「羨ましいな」 大谷翔平の母校・花巻東で指導する柱谷哲二(57)が今も抱き続ける野心とは?
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKeiji Ishikawa
posted2022/01/31 11:04
2018年から花巻東高でテクニカルアドバイザーとして指導にあたっている柱谷哲二(57歳)。ともに「ドーハの悲劇」を経験した森保監督へエールを送った
「犬飼さんに相談したら、『行くな』と。『あそこは日テレが撤退するから危ないぞ』と言うから『まさか!』って。まだまだレッズで勉強したかったんだけど、最後はヴェルディ愛が勝った。レッズに残っていたら、人生違ったのかもしれないなあ(苦笑)」
06年シーズンは7位に終わってJ1復帰ならず。翌07年シーズンはスタートダッシュに成功したものの、7節から7連敗を喫してしまう。
「そうしたらラモスさんが『辞めるよ。テツ、あとは頼む』って言うから、『ちょっと待ってください。僕の意見を一度聞いてもらえませんか』と。3バックにして守備を安定させて、フッキとディエゴを最大限に活かすサッカーに変える提案をした」
すると、それまでの連敗が嘘のようにチームは復調し、残り36試合をわずか4敗で駆け抜け、3年ぶりのJ1復帰を果たすのだ。
「そのタイミングでレッズに戻らせてもらえないかと思ったけど、ラモスさんが辞めちゃって、僕のところに監督要請が来た。フッキの残留を条件に出したのに、レンタル元の(川崎)フロンターレに戻ることになって。ヴェルディを見捨てるわけにはいかないから、引き受けたんだけど……」
川崎でフィットしなかったフッキは4月にヴェルディに復帰したが、7月に今度はポルトに移籍していった。
「フッキが戻ってきてからは5位くらいを目指せそうだったのに、経営が厳しくなっていて、『フッキを売ってお金を作らないと潰れてしまう』って。犬飼さんが言っていたことは、本当だったんだよね」
フッキ頼みのチームからフッキが抜けたのだから、歯車は噛み合わなくなった。結果、ヴェルディは1シーズンでJ2降格という憂き目に遭う。
「フロントのドタバタに振り回された面もあるけれど、人のせいにしてもしょうがない。結局、自分の力不足だなって」
塩谷司から「金の延べ棒は届かなかった(笑)」
その後、国士舘大でのコーチを経て、水戸ホーリーホックの指揮官を5年半務めた。
当時の水戸はJ1ライセンスを保有しておらずJ1昇格の資格はなかったものの、柱谷は並々ならぬモチベーションで指導に当たった。
「レッズやヴェルディでの経験から、若手を鍛えることにやり甲斐を感じていた。だから、少しでも多くの選手を成長させて、J1に送り出したいなと」
5年半の間に、橋本晃司、輪湖直樹、ロメロ・フランク、鈴木雄斗、広瀬陸斗……と、のちにJ1でプレーする選手たちを育てたが、なかでも大きく羽ばたいたのが塩谷司である。
塩谷とは水戸ではなく、国士舘大で出会っていた。
「当時、シオは大学3年。右でも左でも綺麗なキックを蹴るし、1対1も強くて、才能あるなと。ただ、全然走れない。グレているような状態だったんだよね。『おまえ、プロに行きたいの?』と聞いたら、『いや、別にそういうのないっす』みたいな(苦笑)」
しかし、大学4年になった頃、柱谷に「プロになりたい」と相談して来た。
「3年の終わり頃にお父さんが亡くなって、弟たちを養わなきゃいけないと。『じゃあ、タバコもパチンコも辞めろ。俺のトレーニングに付いてこい。真剣にやれよ』って。タバコを吸ってるから、パチンコをしているからダメっていうわけじゃない。覚悟を見たかったの」
その年の終わり、柱谷が水戸の監督に就任することが決まると、塩谷から「水戸へ行かせてください」と頼まれた。
「プロになると、俺のトレーニングはもっときつい。『それでもやれるか』って」
柱谷監督のもと水戸で1年半プレーした塩谷は、J1のサンフレッチェ広島に引き抜かれ、日本代表へと登り詰める。17年6月から21年6月まではUAEのアル・アインでプレーし、昨秋、広島に復帰した。
「水戸では月17万くらいだったんじゃないかな。それがUAEでの年俸は億でしょう。夢があるよね。金の延べ棒が届くかなって期待していたけど、届かなかったなあ(笑)。当時のメンバーからは今でも『引退します』『移籍します』という報告をもらう。『人生で一番きつかったけど、そのおかげでまだやれています』と言ってくれる選手が多くて、嬉しいよね」