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ぶら野球BACK NUMBER
高津臣吾36歳と38歳…2度の“戦力外通告”も「まだやりたい気持ちはある」アメリカ、韓国、台湾…43歳で“現役最後のシンカー”を投げるまで
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byHideki Sugiyama
posted2021/12/25 11:05
絶対的守護神として4度の日本一をもたらした高津臣吾監督(53歳)。そして指揮官としてヤクルト20年ぶりの日本一を果たした
「やはりありますね。外国人に対してはだいたい右でも左でもいける自信があるんですよ。ブワ~ンと振ってくるバッターはいくらでも、とまでは言いませんが、ある程度かわすことはできるんです」
その言葉通り、シカゴの背番号10の投球スタイルはメジャーでハマった。4月23日から6月29日まで24試合連続無失点の快投で、“ミスターゼロ”の異名も現地のファンに定着。シンカーに加え、日本時代にはあまり投げなかった右打者へのスローカーブも効果的に使った。陽気な指揮官オジー・ギーエンとの相性も良く、やがてクローザーを任せられるようになり、59試合で6勝4敗19セーブ、防御率2.31という堂々たる成績で、ア・リーグ新人王投票の2位にランクイン。熟練の投球術はメジャーでも充分通用したのである。
36歳の“戦力外通告”→NPBでの「最後の1年」
だが、その投球スタイルを徹底的に研究された2年目は防御率5点台と低迷し、05年7月18日に戦力外通告。8月にメッツとマイナー契約を結び、再びメジャーの舞台に戻るも、結果を残せず解雇された。翌06年2月、すでに37歳だったが、高津の姿はヤクルト浦添キャンプにあった。背番号のないユニフォームを着て入団テストに臨んだのである。オフに古田敦也が選手兼任監督に就任したばかりのチームは世代交代の真っ只中。かつての抑えの座が確約されているわけでもない。
それでもキャンプインから2週間後に合格を勝ち取り、背番号11と年俸3000万円(プラス出来高)で再出発を切った。開幕直後は、中継ぎに敗戦処理、いわば便利屋のような立ち位置で投げていたが、夏場になると慣れ親しんだクローザーの座に返り咲く。10試合連続セーブを記録した10月7日の広島戦(神宮)で、佐々木主浩に次いで史上2人目の日米通算300セーブを達成。俺はまだ終わらない。まだ投げられるという意地が背中を押した。右腕一本で多くの勲章を手にした男は、38歳になろうとしていた。そして迎えた2007年、高津臣吾はNPBでの「最後の1年」を迎えることになる。