- #1
- #2
ぶら野球BACK NUMBER
高津臣吾36歳と38歳…2度の“戦力外通告”も「まだやりたい気持ちはある」アメリカ、韓国、台湾…43歳で“現役最後のシンカー”を投げるまで
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byHideki Sugiyama
posted2021/12/25 11:05
絶対的守護神として4度の日本一をもたらした高津臣吾監督(53歳)。そして指揮官としてヤクルト20年ぶりの日本一を果たした
『週刊ベースボール』12年12月24日号の「惜別球人」インタビューによると、「選手と両立できるかな、と思っていたのですが想像以上に監督業が忙しくて、無理な状況でした」とこの年は引退試合の1試合に登板したのみ。9月22日、長岡市悠久山野球場にBCリーグ最多6664人の観衆を集め、9回2死からマウンドへ。最後の打者をレフトフライに打ち取り、22年間のプロ生活に別れを告げた。
試合後セレモニーでは、カブス時代の同僚・福留孝介が駆け付け花束を手渡し、“終球式”では古田敦也に向けて最後の1球。もちろん、ラストピッチングは己の運命を切り開いてくれたシンカーだ。
日本、アメリカ、韓国、台湾、そして独立リーグまで。高津臣吾は野球を骨の髄までしゃぶり尽くし、様々な国のプレー環境で貪欲に吸収してきた。ときにそこまで現役にしがみついてどうするという外野の声もあったが、すべての過去は“今”に繋がっている。無駄なことなど何一つなかったのだ。
高津は自著『二軍監督の仕事 育てるためなら負けてもいい』(光文社新書)の中で、3度目のアメリカでプレーしている頃、サンフランシスコ・ジャイアンツのマイナーでバスター・ポージーという若手捕手を見たことを振り返っている。マイナーで3割を超す打率をマークする好打者をなぜメジャーに上げないのか……と疑問に思うが、大切な若手に対しては目先の一勝を追い求めるのではなく、大きく育ててから上に引っ張り上げる育成方針と聞き、なるほどなと思ったという。この経験はのちの二軍監督時代に、ドラ1ルーキーの村上宗隆というスラッガーと出会ったときに生きた。
ヤクルトを率いて就任1年目の最下位から、2年目の21年は球団20年ぶりの日本一に――。高津には世界中の元・所属球団や関係者から祝福の声が届き、その異端のキャリアを再認識させた。
約30年前、“ファミコンを持たせたら12球団随一”とまでいわれた男は、「携帯やゲームは楽しいだろう。しかし、野球でお金をもらっているのがプロだから、そのための健康管理も仕事の一部である」と自著で若手選手をたしなめる、53歳の日本一監督になったのである。<前編から続く>