酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「こんな大金見たことない」 ジャイアント馬場16歳《高校2年で中退して巨人入団》の真相と、知られざる球児時代
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph bySports Graphic Number
posted2021/12/20 11:02
存命時のジャイアント馬場さん。巨人軍時代はどんな投手だったのか
中越野球大会で優勝したときの集合写真には、主力選手だった馬場も写っている。しかし、馬場は前列に座った選手と選手の間から少し顔を出している。自分の巨大な体を隠したいと思っているかのように、体を縮め、目立たないようにしている。
この頃から巨体へのコンプレックスが馬場の心に芽生えてきたようだ。
「息子は相撲にもボクシングにもやりません」
中学の時に馬場はキリスト教の一派であるモルモン教に入信している。町内を流れる五十嵐川に巨体を沈めて洗礼の儀式も行った。多感な年齢になっていた馬場にとって、入信は心の救いを求めてのことだったが、実利もあった。モルモン教会の宣教師、パリッシュ長老は長身で、履く靴がなくて修学旅行をあきらめようとしていた馬場に自分のゴム製のオーバーシューズを進呈している。
馬場は東京にあこがれ、中学卒業後は書籍取次の日販の求人に応募し、東京で工員として働くつもりだったが、手元に置いておきたい母の勧めで、三条実業高校機械科に進むこととなった。
高校ではバスケット部にも誘われたが、もちろん野球をする気でいた。しかし町の運動具店では馬場の足に合うスパイクは売っていなかった。そこで仕方なく美術部に入った。馬場はプロレスラーになってから絵をよく描いたがその素養は高校1年のときに養われた。
この頃には馬場の巨体は近隣に知られるようになった。新潟には大相撲の巡業がよくやってきた。馬場の家の近所の日吉神社でも巡業が行われたが、大関・栃錦(春日野部屋、のち横綱)が馬場の家を訪ねた。また横綱・吉葉山(高島部屋)のもとで励んだ新潟県出身の三段目力士・相葉山(のち幕下)も、熱心に馬場正平を誘った。
しかし馬場は大相撲が嫌いだった。なので力士や親方が来るたびに逃げまわり、モルモン教の集会所の奥に身を潜めたりした。母のミツは力士を前にして「息子は相撲にもボクシングにもやりません」と拒んだ。
念願の入部後、すぐにエースに
一度はあきらめた野球だったが、馬場正平は1954年、2年生の春に野球部に入部する。野球部の渡辺剛部長が、馬場の才能を惜しんで靴屋に特注して特大のスパイクを作ってくれたのだ。
中学までは軟式野球だったから、馬場正平はこのときに初めて硬球を握ったが、群を抜く長身の馬場はすぐにエースになった。練習試合では7連勝したと本人は述懐している。
初の公式戦は春の北信越地区高校野球新潟大会。三条実は長岡工、長岡高戦に連勝するが、5月9日長岡市悠久山球場での長岡商戦で0-9と敗退している。
この大会で巨漢投手・馬場正平の名は県内に知れ渡った。当時の朝日新聞・新潟県版では以下のように記されている。