酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
なぜ落合博満の野球人生はこんなに“特別”なのか…「空白の1日ドラフト」で3位指名→唯一の三冠王3回→「嫌われた監督」も優勝4回
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byMakoto Kemizaki
posted2021/11/01 11:02
ロッテオリオンズ時代の落合博満。通算3回の三冠王、「嫌われた監督」ながら中日でリーグ優勝4回は恐るべき成績である
デビュー時すでに25歳、地味な選手が突然
大学中退、社会人を経た落合はデビュー時すでに25歳。同世代の梨田昌孝はプロ8年目でベストナイン、中畑清も高田繁の後釜で正三塁手の座をうかがうレベルになっていた。
落合は1年目の1979年、二軍で203打66安8本40点、打率.325を記録。5月末には一軍に昇格するが、有藤道世の控え三塁手の扱いだった。2年目の1980年は二塁にコンバートされる。二軍では122打46安11本34点、打率.377、チーム試合数の半分以下の34試合で本塁打王になる無双の働きで、後半戦に一軍定着する。
そして1981年に初めて規定打席に到達して首位打者、翌82年にはパ・リーグでは1965年の南海、野村克也以来17年ぶりの三冠王に輝くのだ。
率直に言って、落合博満には多くのファンはそれほど期待していなかった。この時期、打者でいえば王貞治や野村克也、張本勲らが現役最晩年を迎えていたが、門田博光、山本浩二、谷沢健一、藤田平などが円熟期を迎え、掛布雅之、篠塚利夫、石毛宏典らがスターダムに上がろうとしていた。どのグループにも属さない地味な選手が、突然頂点に立ったという印象だ。
ビッグマウスと3度の三冠王成績が凄まじい
メディアに対するふてぶてしい受け答えも強烈だった。
「プロ野球ニュース」で大投手・山田久志への攻略法を聞かれて「目つぶっても打てる」と言ってのけた。山田の振り子のような美しいサブマリン投法を、あこがれの目で見てきた筆者らにとっては不遜に感じられた。しかし山田の魔球シンカーを体を開いて、かっぱじくように打つのを見て、納得せざるを得なかった。
ビッグマウスを叩くが、それを無造作に実現するのが落合のすごみだった。
三冠王を3回というのもすごいが、その数字もすごい。3度の三冠王と、各部門2位の成績を見てみよう。
<1982年>
32本/ケージ(阪急)31本
99打点/ソレイタ(日本ハム)、加藤秀(阪急)84打点
打率.325/新井(南海).315
<1985年>
52本/デービス(近鉄)、秋山(西武)40本
146打点/ブーマー(阪急)122打点
打率.367/デービス(近鉄).343
<1986年>
50本/ブーマー(阪急)42本
116打点/ブーマー(阪急)103打点
打率.360/ブーマー(阪急).350
最初の三冠王は、本塁打は1本差であり、打点も100点未達。幸運もあって取れた三冠王という印象だったが、2回目、3回目は本塁打50本以上、110打点以上、打率.350以上と言う超ド級だった。この3つをそろえた三冠王は1973年の王貞治(巨人)、85、86年の落合と、85年のランディ・バース(阪神)だけだ。
この時期のパ・リーグは空前の「外国人スラッガー時代」だった。