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「死人が出る」から40年。ドラフト会議、新時代へ。
posted2021/11/01 07:01
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph by
KYODO
「オレがすべてを話したら死人が出る」――こんな物騒な言葉を聞いたのは1982年の年明け早々のことだった。
前年のドラフト会議。社会人・熊谷組に就職が内定し12球団に指名断りを出していた名電高の工藤公康投手を6位で強行指名したのが寝業師・根本陸夫管理部長率いる西武だった。予想通りに交渉は難航。それでも年末には工藤本人が西武入りを表明し、入団発表も行われた。ところがそれに反発したのが熊谷組で、そこから事態は泥沼化していく。
実は熊谷組が強気にでた背景には、すでに工藤の父・光義さんが支度金として金銭を受け取っていた事実があった。もちろん事が公になれば工藤はアマチュア規定違反。熊谷組も責任問題に発展するのは確実だった。それを逆手にとって根本管理部長が発したのが、冒頭の物騒な発言だったのである。このひとことで事態は急転。熊谷組もプロ入りを了承し、そこから西武黄金時代を築く左腕のプロ生活がスタートするのである。