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《訃報》バイエルン番記者が振り返る“爆撃機”ゲルト・ミュラーの人生…恐れられ、愛された「566ゴール」
text by
パトリック・シュトラッサーPatrick Strasser
photograph byAFLO
posted2021/08/19 17:01
1974年西ドイツW杯で母国の優勝に貢献したゲルト・ミュラー
訃報を伝えるバイエルンのホームページは1日中白黒で、「バイエルンの世界は止まっている」と書かれていた。
会長のヘルベルト・ハイナーは「ゲルト・ミュラーは、史上最高のストライカーだった。そして人間としても素晴らしく、ワールドサッカーにおける人格者だった」と哀悼の意を表明し、オリバー・カーンCEOは、60年代中頃に始まったミュラーのキャリアの最初の監督ズラトコ・チャイコフスキーが愛情を込めて「チビデブ」と呼んだミュラーについて「FCバイエルンの歴史で最も偉大なレジェンドであり、彼の功績は今日に至るまで他の追随を許さず、バイエルンとドイツサッカーの偉大な歴史の一部として永遠に語り継がれていくだろう。ゲルトはこれからずっと私たちの心の中にあり続ける」と語った。
そして2000年代のはじめにアーベント紙の若い記者としてよく顔を合わせ、インタビューもした私の心の中にもだ。
49年間、塗り替えられなかった記録
“ボンバー”の残した遺産を短く挙げておこう。
1964年から1979年までのバイエルンの公式戦607試合で566得点。体のあらゆる部分で、考えられるすべての状況から決めた。すべてのディフェンダーにとっての恐怖であり、ペナルティーエリアの曲芸師。バイエルンと13のタイトルを獲得。1974年から76年にはヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップを3連覇。ブンデスリーガでは7回得点王となり、達成不可能と思われた1シーズン40得点という記録は、昨シーズンにロベルト・レバンドフスキが1得点差で塗り替えるまで、49年間守られた。
ドイツ代表では62試合68得点。1972年に欧州選手権、その2年後にはW杯を制覇している。1974年のミュンヘンでの決勝戦で、オランダを相手に決めた2−1の決勝点が、彼の最も重要なゴールだった。