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あれから10年、松田直樹の死に向き合うということ「立ち尽くして、マツさんって名前を呼ぶことしか…」<元チームメイトが語る>
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byTakuya Sugiyama
posted2021/08/05 17:03
2011年、練習中に急性心筋梗塞で倒れ、帰らぬ人となった松田直樹。あれから10年の月日が経った(2011年撮影)
「もっと早くおかしいと気づけなかったのか」
数えきれないほど「もっと早くおかしいと気づけなかったのか」と自問自答したに違いなかった。おかしいと気づけないであろう自分に、落胆するしかない。それでも自問自答を繰り返して、向き合っていかなきゃいけない。松本を離れてもそれは変わらないのだ、と。
コロナ禍ながらマルヤスでの2020年シーズンは「サッカー人として充実していた」という。マルヤス工業で働きながらサッカーをしている選手も多く、仕事とサッカーの両方に情熱を傾ける姿に刺激を受けた。北村監督からも信頼されていた。しかし彼は1年でチームを離れることになる。自分のプレーに納得がいかなかったためだ。
「チームがどうこうではなくて、個人的にサッカーがヘタクソになった気がしたんです。ビルドアップとか相手との駆け引きとかラインの統率とか、いつもは状況に応じて課題が見つかるんですけど、何を向上させていいのか分からなくなった。マルヤスからは契約更新のオファーをいただいたんですけど、次にチャレンジしなくちゃいけないなって感じたんです」
とはいえ、またしてもオファーが来ない。決断を後押ししてくれた妻は、「もしチームが見つからなかったら、私が代わりに働く」とまで言ってくれた。誕生した息子のためにも、そして妻のためにも、モチベーションを高く保とうとした。
子どもたちを指導できるという点に魅力を感じた
そんな折に出会ったのが同じくJFLの奈良クラブであった。
久保建英を発掘したバルセロナキャンプやバルセロナスクールを手掛けてきた会社の浜田満社長が2020年2月より奈良クラブ社長に就任。今季はスペイン人指導者を招へいするなど改革を進めている。
飯田は選手をやりつつ、アカデミーで子どもたちを指導できるという点に魅力を感じた。最終的には複数あったオファーのなかから、奈良クラブを選択した。全体練習の1、2時間前に来て準備をしてからチーム練習に臨み、午後はスクールの小学生を教えるという日々を送っている。