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ノムさん「プロに誘ってすまなかったな…」あれから20年、阪神・F1セブンの元メンバーが明かす“野村監督とのその後”
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2021/06/21 17:03
キャンプ中、記者たちと談笑する野村監督。F1セブンは赤星、藤本、沖原、上坂、平下、松田、高波の順に1号車~7号車と名付けられた
「報道陣との雑談の中から誕生したF1セブンでしたけど、その翌日にはさっそく50メートルのタイムを計ることになりました。僕と赤星だけが5秒台で、あとは6秒フラット前後だったと思います。もう20年も経ったのに、いまだに“F1セブンの高波さんですね”って言われます。メディアも巻き込んでの宣伝効果というのかな。野村さんというのは本当にすごいですね」
新庄剛志が海を渡った後の話題作りに躍起となっていた野村克也。阪神監督としては就任した1999年から3年間ですべて最下位に終わった。それでも、高波は言う。
「結果は3年連続最下位でしたけど、僕自身は“野村さんでもダメなのか”という思いは何もなかったです。実際に野村さんが獲得した選手たちが主力となって、星野(仙一)監督時代に優勝しているわけですからね」
濱中、赤星、上坂で「平成の新少年隊」
現在は不動産会社に勤務する上坂太一郎も懐かしそうに、当時のことを振り返る。
「僕は、野村監督のことが大好きでした。チャンスをたくさんもらいましたし、野村さんがもう少し続けていたら、全然違った野球人生だったんじゃないのかなって思います。野球界からは離れたのに、今でも、F1セブンのことを言われます。何だかこそばゆいですけど、今となってはありがたいお話ですよね」
野村の後を継いだ星野監督時代、上坂の出番は少しずつ減っていく。あまり話題にはならなかったものの、2001年に野村は濱中治、赤星、そして上坂の三人を「平成の新少年隊」と称して売り出そうとしたこともある。上坂の口から白い歯がこぼれる。
「単純に男前だったからじゃないですか(笑)? 僕が1番を打って、2番が赤星さん、3番が濱ちゃんっていう並びだったんですけど、最初に聞いたときは、“一体、野村さんは何を言っているんだろう?”って思いましたよ」
プロ生活はわずか8年に終わった。それでも、「F1セブン」の一員として、上坂の名前を記憶するファンは多い。上坂は恩師である野村にあいさつもできないまま退団したことがずっと心残りだった。しかし、一度だけ生前の野村と対面する機会を得たという。