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ノムさん「プロに誘ってすまなかったな…」あれから20年、阪神・F1セブンの元メンバーが明かす“野村監督とのその後”
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2021/06/21 17:03
キャンプ中、記者たちと談笑する野村監督。F1セブンは赤星、藤本、沖原、上坂、平下、松田、高波の順に1号車~7号車と名付けられた
「亡くなる1年ぐらい前にカツノリさんを通じて、沖原さんと一緒にご自宅に行く機会がありました。普通の会話をしているときには普通の《おじいちゃん》なのに、いざ野球の話になると、たちまち《監督》になるんです。目つきも変わるし、話している言葉も一つ一つがカッコいいんです。ご高齢であっても、野球の話になると監督に戻る。それが、印象に残っていますね」
「僕はF1セブンで一番遅かったと思います(笑)」
阪神時代に野村の下に仕え、後に楽天時代にも野村監督の下でプレーした沖原佳典。現在は古巣、楽天のスカウトを務めている。
「赤星を筆頭に、F1セブンの中に僕も一応、名前を入れてもらっていたんですけど、僕自身は、まぁ遅くはなかったけど、あの中で言えばそこまでの速さはなかったんです。田中秀太には、“沖原さん、そんな速くないのに何で入ってるんですか?”って言われていました。実際、僕はメンバーの中でも一番遅かったと思います(笑)。監督の意図としては、そうやってまずは選手たちを売り出すと同時に、足を使う野球をするんだっていうことを、他球団にアピールしていたんだと思いますね」
高波、そして上坂同様に、沖原もまた、「F1セブンはいつ終わったのかはよくわからない」と笑った。
「始まりはわかるけど、いつ終わったのかは僕が聞きたいぐらいですよ(笑)。F1セブン自体は野村さんが退団されたときに消滅したけど、こうして取材を受けたり、“F1セブンのメンバーでしたよね”と今でも言われます」
「プロに誘ってすまなかったな」
沖原は大学、社会人を経て野村の最終年となる01年に阪神に入団した。ドラフト指名において、野村の強い推薦があったという。沖原は28歳のオールドルーキーだった。生前の野村は、ずっとそのことを気にかけていたという。
「現役時代はそんなことはなかったんですけど、僕が引退してからはお会いするたびに、“社会人ならば安泰だったのに、プロに誘ってすまなかったな”と言われました。亡くなる前年にご自宅にお邪魔したときにも、そう言われました……」
感慨深げに語る沖原の手元には、阪神時代の「野村ノート」が大切に置かれている。
「現役時代よりも、引退後コーチになったときに、このノートのすごさ、ありがたみが理解できました。本当に、僕にとっての宝物です」
01年シーズンに突然誕生し、その年限りで自然消滅した「F1セブン」。チームは最下位に終わり、野村は退任した。決して目覚ましい成果を挙げたわけではなかったものの、あれから20年のときを経てもなお、当事者たちにはそれぞれの「F1セブン」の思い出が息づいている。そして、冒頭で紹介した陣内智則だけでなく、多くの野球ファンの記憶に刻まれているのは間違いない事実である。
それぞれの思いで感謝の気持ちを述べていた3人。では野村監督が売り出したF1セブンとは結局、何だったのか。阪神特集号「猛虎新風伝」では今回登場した3選手に加えて、当時の腹心・松井優典ヘッドコーチの証言も掲載。当事者たちが口を揃えて語ったことは他にもありました。詳細は誌面でぜひご確認ください。