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本田泰人が語る「帝京の天才・礒貝」の破天荒伝説…今だから笑える“へなちょこPK”、すっぽんマークのあだ名も礒貝のせい?
 

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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photograph byManabu Yamabe

posted2021/06/01 11:01

本田泰人が語る「帝京の天才・礒貝」の破天荒伝説…今だから笑える“へなちょこPK”、すっぽんマークのあだ名も礒貝のせい?<Number Web> photograph by Manabu Yamabe

YouTubeの配信や北九州でサッカースクールを運営するなど慌ただしい日々を過ごす本田泰人(51歳)。撮影は5月上旬だったが、肌はこんがり焼けていた

 雪の残る大宮サッカー場。ゲームは帝京がほぼ一方的に押されながらもスコアレスのまま、PK戦へと突入する。ふたりが外し、絶体絶命の帝京。5人目のキッカーとして登場したのは、礒貝だった。

 礒貝の渾身のキックは……と書きたいところだが、見るからにやる気がなさそうに登場した磯貝の力ないキック――本田が言うところの「へなちょこキック」は、GKにあっさりキャッチされ、帝京の敗退が決まった。

 YouTubeで検索すれば映像が出てくるから、読者の皆さんも見てほしい。選手権の準々決勝とは思えない、礒貝の「へなちょこキック」を。

「俺たちは選手権に懸けていたけど、あいつは日本代表とか、ヨーロッパでサッカーをやりたがっていたから、選手権なんてどうでもいいのよ。ほんと酷いよね(苦笑)」

「すっぽんマーク」は勘違いから?

 礒貝と飯島が東海大へ、森山が順天堂大へと進学する一方で、本田は本田技研工業に就職した。Jリーグが誕生する5年前――1988年の話である。

 当時、同サッカー部を率いていたのは、のちに鹿島の初代監督となる宮本征勝だった。

「帝京では洋光が守備をしないから、俺があいつの代わりにハードワークをしていたんだけど、宮本さんはそれを見て、どうやら俺を守備的MFだと勘違いしたみたいで。だから俺、守備的MFとして本田技研に入ったの」

 のちに「すっぽん」と称される密着マークで名を馳せ、日本代表にまで上り詰める“ボランチ・本田泰人”は、勘違いから生まれたのである。

 当時の本田技研には、選手兼コーチの関塚隆をはじめ、勝矢寿延、黒崎久志、内藤就行、北澤豪、石川康といった面々が在籍していた。

 本田にとって幸運だったのは、守備的MFに絶対的な存在がいなかったことだ。いや、だからこそ本田は獲得されたとも言える。さっそく1年目から出場機会を掴み、2年目からレギュラーを務めるようになった。

 これに燃えたのが、北澤だった。

「キーちゃんは俺の一個上で、出身の修徳は同じ東京だったから高校時代から知っていて。キーちゃんは俺のことを弟分っていう感じで連れ回してたの。でも、俺が先に試合に出るようになってショックだったと思うよ。それでハングリー精神に火がついた。キーちゃんも試合に出られるようになって、JSLの得点王になるんだから。俺のおかげだよね(笑)」

 本田のサッカー人生が大きく動くのは、91年のことである。日本初のプロサッカーリーグの開幕を2年後に控え、本田技研がJリーグ参加を見送ったのだ。

 この年に北澤が読売クラブ(のちのヴェルディ川崎、現東京ヴェルディ)に移籍したのに対し、本田は翌92年に宮本監督、黒崎、内藤、長谷川祥之らとともにJSL2部だった住友金属工業蹴球団を前身とする鹿島アントラーズに移籍する。

 そして、衝撃を受けるのだ。

「住金の選手たちがみんな、下手くそでね(苦笑)。これは大変なことになるなって思ったよ」

【続きを読む】#2『ジーコの唾吐き、20歳ヒデは鬼軍曹、モトさんの伝説ループ…本田泰人が明かすJリーグ開幕&加茂ジャパン激闘の舞台裏』へ(当時の懐かしい写真も見る)

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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