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2度目の戦力外通告「辞めないで!」泣いた息子 引退か現役か…プロ野球選手が決断するとき【山崎武司の場合】
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2020/11/28 17:03
2011年に楽天から戦力外通告を受けた山﨑武司
楽天が誕生した2005年から在籍し、07年には43本塁打、108打点で二冠王に輝くなど、山崎は打線の中心に君臨し続けた。
牽引していたのは打撃だけではない。
球団創設当時のチームは、オリックスと合併した近鉄のプロテクトから漏れた、いわば「寄せ集め集団」だった。「何とかしたい」と、若手選手たちの尻を叩き続けた。マスコミにも、いいものはいい、悪いものは悪いとはっきり言い放った。豪放磊落。竹を割ったような性格のベテランは、記者にも慕われた。
精神的支柱。
いつしかそう称され、ファンからも絶大な支持を受けていた男が楽天を去る。
年齢と成績から客観的判断を下せば、自由契約という球団の意向も理解できるが、個人の意思を優先して考えれば100%納得したわけではなかった。それは、山崎だけではなく、戦力外通告を受けた者すべての共通認識だろう。
「俺は星野さんに葬られると思っていたから」
ただ、プロ野球選手にとっての“死の宣告”を星野から下されたことに関しては、不思議と運命めいたものを感じたのだという。
「俺は星野さんに葬られると思っていたから」
そう切り出し、中日入団1年目の監督でもあった星野への胸の内を話してくれた山崎が、今も印象に残る。
「野球に対する厳しさ。『今に見てろよ! 絶対に見返してやるからな!!』みたいな負けん気だったり、根性を教えてくれたのが星野さんだったから。あの人との出会いがなければ、ここまで長く野球をやれていたかどうかわからない。そういう人情味に溢れた人と、40を越えてまた楽天で出会えて、直接クビを言い渡されるっていうのは、ある意味ではいい巡り合わせだったような気がするね」
とはいえ、意向をすべて汲むことはできなかった。戦力外通告を受けると同時に球団からコーチ就任を要請されたが、固辞した。
「引退しよう」
この瞬間は、純粋にそう思えたと、山崎は偽らざる心を打ち明けていた。
「辞めないで!」泣いた息子
ただ、周りがそれを許さなかった。