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2度目の戦力外通告「辞めないで!」泣いた息子 引退か現役か…プロ野球選手が決断するとき【山崎武司の場合】
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2020/11/28 17:03
2011年に楽天から戦力外通告を受けた山﨑武司
知己たちは「まだやれる」と背中を押す。息子からは、「辞めないで!」と泣きながら懇願された。
それらと同じくらい響いたのが、楽天の元監督で山崎を再生させてくれた恩師、野村克也の言葉だった。
「お前は25年やってきた。実績もある。辞める、辞めないの決断は自分でしないといけない選手だ。人に言われて決めちゃいかん。まだやれると思うなら頑張れ」
10月9日の会見に臨む前には、山崎はすでに覚悟を決めていたのである。涙を流したのは戦力外の悔しさではなく、苦楽を共にした楽天のチームメートたちとの別れ。そして、「第二の故郷」と公言する仙台を離れる寂しさからだった。
崩壊寸前の涙腺を抑えながら、楽天の象徴は声を張った。
「自分のなかの火を消せなかった」
力強く、現役続行を表明した。
この時点で山崎は通算402本塁打を記録していた。2000安打より達成者が少ない400本塁打越えの偉業を打ち立てたレジェンドである。自らを育ててくれた星野に引導を渡されたのであれば、楽天で花道を飾るのも悪くはなかったはずだ。
現役続行を決めたのは周囲の後押しがあったことは大きいが、山崎にはそれを凌駕した自我が根付いている。
「俺は、俺の道を突き進む」
スマートな人生など邪道。地位や名誉に媚びず、泥臭く命を燃やすことこそ王道。それが山崎武司というプロ野球選手だった。
「けど、本当に扱いがひどかったから!」
その強靭な背骨の形成には、過去の戦力外も決して無縁ではない。
山崎は中日時代の02年オフにトレードでオリックスへと移籍しているが、これは自らが望んだ「クビ」のような決別だった。
前年の01年。2割3分8厘と打率こそ低かったが25本塁打と、主砲として最低限の成績を残していた山崎は、中日と新たに3年契約を結んだ。ところが翌年、新監督の山田久志は最初こそスタメン起用を約束していたものの、開幕からなかなか調子が上向かなかった山崎は容赦なく二軍へ落された。
プロは実力社会であるとの自覚があるため、そこは理解できた。だが、指揮官のその対応は1996年の本塁打王など、チームを支え続ける選手への敬意があまりにも欠落していた。
当時を思い返すと、山崎の言葉はいつも怒気をはらんでいた。