“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
小野伸二も驚いた山崎光太郎の技術。
プロでの苦難は金の卵へのアシストに。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2020/08/18 17:00
J1清水スカウト・山崎光太郎氏。高原や小野と競い合った高校時代、そしてプロでの苦い経験が今に繋がっていると話した。
小野伸二も「神様」と呼ぶ。
山崎光太郎と言えば、清水東高校時代はスタープレーヤーだった。165cmと上背はないが、一度ボールを持てば卓越した技術とスピードで、誰も手がつけられないドリブラーに変貌。1学年下の高原直泰と前線でホットラインを組み、破壊力抜群の攻撃を担っていた。
高原と同い年で県内のライバル・清水商業(現・清水桜が丘)の小野伸二もNumberのインタビューで「神様的な存在だった」と称賛していたほど、山崎の能力は際立っていた。
エクアドルで開催された1995年のFIFA U-17世界選手権(現・U-17W杯)では小野、高原、稲本潤一らと共に世界のピッチに立っている。
だが、山崎はこの頃から思い描くサッカー人生を送ることができなかったと当時を振り返る。
「僕は清水で生まれ育って、静岡のサッカー人として清水東に進みながらも、一度も選手権に出ていないんです。高2の時は予選決勝で、高3の時も準決勝で共に静岡学園に敗れた。いろんな人と顔を合わせても『あの時の清水東すごかったね』と言われますが、僕らが伝統ある清水東を弱くしてしまったんじゃないのかと。何も結果を出していない恥ずかしさは今もあります」
高校卒業後、名古屋グランパスに加入すると同時に中京大学に進学。名古屋では2年間芽が出ず、退団すると、その後は中京大サッカー部で2年間プレーを続けた。
一方で、後輩の高原や小野らはJリーグの舞台に留まらず、ワールドユース準優勝を皮切りにフル代表へとステップアップしていた。端から見ると大きく水を開けられたように見えたが、山崎の中では彼らの存在がサッカーをする上で大きな後押しとなったという。
「大学サッカーで鍛え直してからプロに戻ることに反対の声もありましたが、小野は『それでいいと思う』と言ってくれたんです。もう1度彼らと一緒にやるために頑張ろうと素直に思えました」
「もう自分は日本代表には入れない」
2001年、後輩の励ましを胸にプロの世界に戻る形で清水に加入した。
しかし、そこからの7年のプロ生活は、怪我の連続だった。この期間で右膝の半月板損傷、2度の鼻骨骨折、足首の捻挫と骨折、原因不明の足首の腫れ、そして後十字靭帯を損傷……。調子を上げては怪我をし、手術も複数回した。
「苦しかったというか、『なぜなんだ』と自問自答を繰り返す日々でしたね。現役でいる間はずっと彼ら(高原、小野ら)と一緒にプレーしたいとずっと思っていました。でも、最後の年はそれが現実的ではないなと感じたんです。本音を言ってしまえば、『もう自分は日本代表には入れない』と。このまま続けても年齢的にも叶わない。それも引退を決めるきっかけの1つでした」
山崎は'07年シーズンをもって、29歳で現役を引退。そして自身2チーム目であり、故郷でもある清水でスカウトとしてのキャリアをスタートさせた。