熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
カズ20歳、ブラジルでの洗礼と栄誉。
必殺ドリブルと“日本のガリンシャ”。
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2020/06/06 20:00
キンゼ・デ・ジャウー時代の三浦知良(前列右端)。日本サッカーの知名度が皆無の中、ポジションを必死につかもうとしていた。
サントスにはドゥンガらがいた。
サントスは、キング・ペレを擁して1960年代に2年連続で世界クラブ王者となっている名門中の名門だ。当時のチームにも、MFドゥンガ、CFセルジーニョ・シュラッパらブラジル代表の猛者がいた。
左ウイングのゼ・セルジオもブラジル代表で、小柄だがテクニックがあり、決定力も高かった。彼が絶対的なレギュラーで、カズはその控えの座を争う立場だった。
3月下旬の北米遠征に参加し、3月26日にメキシコシティで行なわれたチーバス・グアダラハラ戦に途中出場。4月9日のサンパウロ州選手権のジュベントス戦に初先発したが、緊張のあまり、ミスを連発してしまう。
5月、パルメイラスがキリンカップに招待されると、主催者からの要請でこの期間だけパルメイラスに加わり、日本代表、奥寺康彦が所属していたブレーメンなどと対戦した。
ただし、これはブラジルでプレーする日本人ということで特別に招待された、というのが実情で、本物のプロとして認められたわけではなかった。
日系人が創設したクラブに移籍。
ブラジル帰国後、サントスへ復帰し、6月に他州のクラブとの強化試合に出場するが、効果的なプレーはできなかった。
そこで宣雄は「サントスでプレーするにはまだ力不足」と判断し、他クラブで武者修行させようと考えた。
10月、南部パラナ州のマツバラへ移籍する。
綿栽培で成功した日系人が創設したクラブで、本拠地カンバラは人口2万人ほどの田舎町。町に1つしかない質素なホテルに住み込んだ。
パラナ州は、日本の半分以上の面積がある。遠征先への交通手段はバスで、悪路を10時間以上かけて移動することが珍しくなかった。
左右のウイングとして出場し、ドリブルで1対1の勝負を挑んだ。切り返しや跨ぎフェイントを駆使して縦へ抜け、クロスを入れて決定機を作る。このプレースタイルが注目を集め、「ガリンシャ・ジャポネス」(日本のガリンシャ)と呼ばれるようになった。