熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
カズ20歳、ブラジルでの洗礼と栄誉。
必殺ドリブルと“日本のガリンシャ”。
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2020/06/06 20:00
キンゼ・デ・ジャウー時代の三浦知良(前列右端)。日本サッカーの知名度が皆無の中、ポジションを必死につかもうとしていた。
ラリアートまがいのファウルも。
ガリンシャは、抜群のスピードとテクニックを兼ね備えたブラジル・フットボール史上最高の右ウイングである。
1953年から1972年までリオの強豪ボタフォゴ(現在、本田圭佑が所属)などで活躍し、ブラジル代表にも選ばれて1958年と1962年のW杯でペレらと共に2連覇を果たした偉大な選手だ。
ブラジルで彼に喩えられることは、ウイングにとって最高の栄誉と言っていい。カズが日本へ帰国してから今までの30年間、ブラジルでガリンシャに擬された選手は1人もいない。
しかし、チームの主力となるとディフェンダーからのマークもより厳しく、そして激しくなる。ボールそっちのけで足を削られたり、プロレス技のウエスタン・ラリアートまがいの犯罪的なファウルを受けて吹っ飛ばされたりした。
このような「プロの洗礼」に苦しみながらも、20歳の若者は歯を食いしばってプレーを続けた。
南部3州の中堅クラブを集めたトーナメントで優勝し、1987年前半、パラナ州選手権に出場。ほとんどの試合に先発し、アシストの山を築いた。しかし、強引にシュートを放つ姿勢に乏しく、得点はなかった。
得意のドリブルに磨きがかかった。
10月、ブラジル北東部のCRBへ移籍する。本拠地マセイオは、エメラルド色の海に面した美しい海岸町だ。
この年の10月から翌年2月までブラジルリーグが行なわれ、CRBは事実上の3部に参戦した。
得意のドリブルに磨きがかかり、マーカーをキリキリ舞いさせて喝采を浴びた。ここでも「ガリンシャ・ジャポネス」と呼ばれ、チーム随一の人気者となった。
ただし、相変わらず多くのチャンスを作り出すものの、ゴールは生まれなかった。
CRBはブラジル北東部では名前が知られたクラブだが、ブラジル全体からみれば強豪とは言えない。1988年2月、カズはかつてU-20に所属したキンゼとプロ契約を結んだ。