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《消えた天才》14歳10カ月でプロデビューしたフレディ・アドゥーは、いま何をしているのか? スウェーデン3部のチームもクビになり…
posted2021/07/28 17:00
text by
マキシム・オバンMaxime Aubin
photograph by
L’Équipe
サッカーの歴史において、ペレの名前で形容された選手は何人いたことだろうか。第2のペレ、ペレの後継者、白いペレ、東洋のペレ……。今日ではフランスで、キリアン・ムバッペが何かとペレと比較されている。
ペレの名前で形容された選手のなかにも、トスタンやジーコのように名を成したものたちもいるが、その数は多くはない。将来を嘱望されながら大成せずに終わった選手の方が圧倒的に多いように思う。
フレディ・アドゥーもそのひとりである。デビュー当時からペレと比較されたアドゥーは、日本でもその名を知られていた。だが、アメリカサッカーの将来を背負うと期待されたこのスター候補は、頂点を極めることなく選手としての生涯を棒に振ってしまった。
いったい何が悪かったのか。
『フランス・フットボール』誌4月20日発売号でマキシム・オバン記者がレポートしているのは、人気が低迷するメジャーリーグサッカー(MLS)の期待を一身に背負い、イビチャ・オシムやフィリップ・トルシエが繰り返し批判し続けているアメリカ式スターシステムの犠牲となったひとりの若者の挫折の過程である(肩書や年齢などは『フランス・フットボール』誌掲載当時のままです)。
(田村修一)
アメリカプロスポーツ史上最年少の契約
14歳の少年は、通常は何をしているのだろうか? 2003年にフレディ・アドゥーがMLSのDCユナイテッドとプロ契約を結んだのが14歳のときであり、アメリカプロスポーツ史上最年少の契約締結であった。当時、アドゥーに寄せられる期待はもの凄く大きかった。若年層のあらゆるカテゴリーを飛び級した小柄なウィングは、そのドリブルとテクニック、フィジカルの強さで、インテルをはじめとするヨーロッパのビッグクラブの注目を集めた。だが、彼がプロのキャリアをスタートさせたのは、移住先であるアメリカのワシントンDCだった(アドゥーは1989年6月2日、ガーナの首都アクラ近郊の都市タマで生を受け、8歳のときに母親がグリーンカードの抽選に当たりアメリカに移住した)。
「2003年の段階でフレディはまだひとりの少年にすぎなかった。DCユナイテッドと契約したことで、彼はプロになってからも母親と暮らすことができた」と語るのは、スポーツジャーナリストのグラント・ワールである。