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カズ20歳、ブラジルでの洗礼と栄誉。
必殺ドリブルと“日本のガリンシャ”。 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byHiroaki Sawada

posted2020/06/06 20:00

カズ20歳、ブラジルでの洗礼と栄誉。必殺ドリブルと“日本のガリンシャ”。<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

キンゼ・デ・ジャウー時代の三浦知良(前列右端)。日本サッカーの知名度が皆無の中、ポジションを必死につかもうとしていた。

セルジオ越後も「嘲笑された」。

 セルジオ越後も「日本人や日系人がユニフォームを着て、ボールを蹴っているというだけで奇異の目で見られ、嘲笑されたものだ」と語っている。

 越後は、1945年サンパウロ生まれ。17歳で名門コリンチャンスの下部組織に加わり、ブラジルでは1964年から71年までコリンチャンス、ブラガンチーノなどで、日本でも1972年から74年まで藤和不動産で活躍。コリンチャンス時代、ボールと戯れていて、ひょんなことから、足のアウトサイドでボールを外へ押し出し、すぐさま内側に切り返して相手を抜き去るドリブル、エラスチコを発明した。

 この技をコリンチャンス時代の同僚のブラジル代表MFリベリーノ(1970年W杯でペレらと共に優勝した名手)が真似をして自分の持ち技とし、以後、ロマーリオ、ロナウジーニョ、クリスティアーノ・ロナウド(ユベントス)らスーパースターがそのまた真似をしている。

 越後は「エラスチコを編み出した男」としてブラジルと世界のフットボール史に残るが、その越後ですら少年時代は周囲の偏見に苦しみ、「自分がブラジル人よりうまいことを証明して、周りを納得させるしかなかった」と述懐する。

 越後が味わったのと全く同じ偏見と苦しみを、カズも味わったのである。

カズをかわいがった会長の回想。

 越後と同様、周囲の偏見を覆すには実力をつけて見返すしかなかった。カズは、死に物狂いで練習に励んだ。

 1984年、サンパウロ州内陸部のキンゼ・デ・ジャウー(以下、キンゼ)のU-20に入る。
 当時、キンゼでカズを息子のように可愛がってくれたのがパウミーロ会長だ。

「チームで一番練習する子だった」、「何が何でもプロになる、という強い決意を感じた」と振り返る。

 カズは少しずつ言葉を覚え、ブラジルでの生活とフットボールに馴染んでゆく。

 翌年にはチームと共に日本へ遠征し、各地で同世代のチームと対戦。11月には20歳以下の全国大会であるタッサ・サンパウロに出場した。

 そして、1986年2月24日、19歳の誕生日を迎える2日前にサントスとプロ契約を交わす。ブラジルへ渡ってから3年3カ月。「ブラジルでプロになる」という一つの夢を実現したのである。

 しかし、ブラジルには広大な全土に700もの膨大な数のプロクラブがあり、プロ契約を結ぶだけなら実はさほど難しくない。重要なのは、厳しい競争を勝ち抜いてトップチームの試合に出場し、誰もが認める一流の選手になること。

 それを、カズも宣雄も良く理解していた。

【次ページ】 サントスにはドゥンガらがいた。

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