酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
呂明賜、南海と阪急身売りに10.19。
昭和最後の野球は平成を先取った。
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byMakoto Kenmizaki
posted2020/05/04 11:30
新装なった東京ドームを本拠地とした巨人。その目玉補強は呂明賜だった。
20歳清原に負けない40歳門田の打棒。
4月23日、南海ホークスの川勝傳オーナーが死去。86歳。野村克也の最大の理解者であり、1977年には「泣いて馬謖を斬る」思いで野村を放出。大きなニュースではなかったが、この人物の死が秋の「球界再編」の伏線となった。
5月22日、南海、門田博光がパの打撃三部門でトップに立つ。2月26日に40歳になった門田はこの年絶好調だった。
筆者はこの年、門田を見るために大阪球場に日参した。この年の門田は迷いがなく、試合前の打撃練習では3年目・20歳の清原和博にも負けない打球を飛ばしていた。左打席でバットをぴたりと構えて狙いを定め、胸のすくようなホームランを右翼席に叩き込んでいたのだ。
このころの南海は「何回やっても勝てません」と揶揄されるくらい弱かったが、門田の活躍もあって6月には一瞬だが2位になっている。
クロマティに代わって呂明賜が……。
6月14日、巨人は前日にクロマティが死球で左手親指を骨折。代わって昇格した台湾出身の呂明賜が神宮球場のヤクルト戦で初打席初本塁打を放つ。呂はここから10試合で7本塁打。まさに大ブレークを果たした。
ラジオ体操第2の「腕を大きく振って斜め上に」みたいなフォロースルーは強烈だった。広いと言われた東京ドームでも3発。新しい時代の到来を感じさせた。
そしてこの時期、スポーツ紙などで「南海ホークス身売り」のうわさが流れ始める。大阪球場に通い詰めていた筆者は“まさか”と思ったが、南海に深い愛情を注いでいた川勝オーナーの死去直後から出た噂だけに、不気味なものを感じていた。
8月後半、門田は西武・秋山幸二と激しい本塁打争いをしていた。8月はともに8本塁打ずつを打って32本で並ぶ。しかし門田は9月3、7日と打ち、8日の近鉄戦で2発。36号となり、40歳でのMLB本塁打記録である34本(1987年ダレル・エバンス)を抜く。いよいよタイトルが見えてきたのだ。
しかし9月14日、新聞の夕刊は一斉に「南海、ダイエーに身売りへ」と報じた。