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高橋由伸が松井秀喜を超えていた?
巨人戦が平均20%超えした最後の年。
posted2020/05/03 20:00
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Kyodo News
21年前の大型連休中、ひとりの若者がスーパースターへの階段を駆け上がっていた。
1999年(平成11年)5月3日現在、打率.423、10本塁打、31打点と圧倒的な数字で三冠王に向けて突き進んでいた男、巨人の高橋由伸である。
背番号24は当時プロ2年目の24歳。西武のゴールデンルーキー松坂大輔とともに、球界新世代の旗手と称されていた時期だ。
この年はいわゆるひとつの“ヨシノブフィーバー”絶頂期だ。前年の'98年は、初球から果敢に打ちにいく打撃スタイルを武器に、セ・リーグでは自軍監督だった長嶋茂雄以来40年ぶりのルーキー打率3割をクリア。オールスター戦では新人史上最多の51万4351票を集め、第1戦で優秀選手賞を獲得している。
新人王こそ大学時代からのライバル川上憲伸(中日)に譲ったが、リーグ特別表彰を受け、12捕殺を記録した守備では外野手としては新人史上初のゴールデングラブ賞にも輝いた。唯一の誤算は、ミスター命名の“ウルフ由伸”が軽くすべって定着しなかったことぐらいだろうか。
アイドル原の後継者を期待されていた。
甘いマスクに圧倒的な実力。私生活では黄色いボルボをぶっ飛ばす人気者。すぐさま自動車や飲料メーカーのテレビCMに出まくり、明治製菓の広告では当時のスーパーアイドル広末涼子と共演。
その爽やかなキャラクターにはファッション界からも、メンズブランド「ゴルチエ・オム・オブジェ」がラブコール。首都圏を中心に貼られた広告ポスターの盗難も話題になるほどだった。
1つ年上の松井秀喜が長嶋監督のもと、王貞治の年間55本塁打を含む“ON超え”を託されたのとは対照的に、高橋由伸は周囲から1980年代にテレビCMで大人気だったアイドル原辰徳の後継者を期待されていた。その後の巨人監督の座を巡るタツノリとヨシノブの運命を思えばなんとも興味深い歴史である。