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パラテコンドー日本代表、伊藤力が
修造に語った“先生”との出会い。

posted2020/01/20 08:00

 
パラテコンドー日本代表、伊藤力が修造に語った“先生”との出会い。<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

「前動作がない、よけづらい蹴りって言うんですかね。ノーモーションでふっと力を抜いて蹴る……」対談は、徐々に高度な話になっていった。

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松岡修造

松岡修造Shuzo Matsuoka

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Nanae Suzuki

 パラテコンドーで2020年の東京パラリンピック出場を目指す伊藤力さん。伊藤さんは2015年4月に勤務先の工場で事故に遭い、利き手である右腕を失った。

 右腕を切断した後、パラテコンドーを始めた伊藤さんはどのような過程を経て強くなってきたのか。2016年7月に東京へ引っ越してきてからの道程を、松岡さんが丹念に掘り下げていく。

松岡「パラテコンドーに人生を賭けて、真剣にやっていこうというときに専属のコーチがいない。僕もプロアスリートだったからわかるんですけど、自由な時間って持て余すじゃないですか。会社には週2日の勤務で、あとは何をしても自由。その状況に戸惑いはなかったですか」

伊藤「途方に暮れる感じはありました。色んな方が協力はしてくれるんですけど、やっぱりそこの門下生でもないから、身になる練習はできてなかったですね」

松岡「今くらいの知識があれば、体幹トレーニングをして、メンタルを鍛えてと、時間はいくらでも埋めていけると思うんです。でも当時、力さんはそこまでトレーニングに詳しいわけではなかったんですね。教わったことを反復しても、せいぜい2時間程度の練習で終わってしまう。きっとタフな時間だったんじゃないかなって」

伊藤「そうですね。ほんと、充実した練習が積めるようになったのはここ1年半くらいのことです。丸っきりの素人から始めているからやればそれなりに上手くなるんですけど、それをどう実戦に生かしていくかまでは想像ができない。タフな時間だったかといえば、その通りです」

「全日本も開催されないような状況でした」

松岡「まったく先が見えない中で、日本代表を目指す選手は伊藤さんの他にもいたんですか」

伊藤「いや、その時は女子の太田渉子さんくらいで、男子は僕1人です」

松岡「ということは、全日本も出たら優勝と」

伊藤「全日本も開催されないような状況でした」

【次ページ】 「僕の階級は出場したのが2人でした」

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