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イップス、衝突、安英学の助言。
マリノスGK朴一圭「勝負は2年目」
text by
キム・ミョンウKim Myung Wook
photograph byKim Myung Wook
posted2020/01/22 20:00
シーズン終了後、インタビューに応じた朴。松永コーチの指導のもと成長を続けたGKは、マリノス優勝に大きく貢献した。
金鍾成監督との出会い。
自分のレベルがどれほどのものなのかを知りたいという欲求は、すでに当時から芽生え始めていた。GKとしてのスキルをもっと高めたいという思いが強くなる中、どの高校でサッカーを続けるのかを迷っていた。
そんなときに声をかけてくれたのが、のちに朴の恩師となる金鍾成(キム・ジョンソン)監督率いる東京朝鮮高級学校のサッカー部だった。
金氏は現在、J3の鹿児島ユナイテッドの監督を務めている。元北朝鮮代表FWで、現役時代はジュビロ磐田、コンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)でプレーした。現役引退後は朝鮮大学校サッカー部やFC琉球の監督を歴任。'18年にはFC琉球をJ3優勝に導いた。
「金監督のいる高校が僕のことを必要としてくれていたんです。日本の高校に行こうかとも迷っていたのですが、求められたのが初めてでうれしかったし、試合に出られる環境にいないと意味がないと思っていたので、東京朝鮮高に決めました」
全国の舞台には届かなかったが、プロでやりたいという意志は明確にあったという。
セレクションを受けるも、JFLへ。
高校卒業後、Jクラブのセレクションを受けるも叶わず、朝鮮大学校へ。当時、関東2部リーグ所属だったが、同リーグには小林悠(川崎フロンターレ)ら、後にJリーグで活躍する選手たちが切磋琢磨していた。そうした恵まれた環境の中で、プロという目標を明確に掲げて練習を続けた。
大学4年間で力がついた確信もあったし、少しの自信もあった。朴は再度、Jクラブへ挑戦する。横浜FC、大分トリニータ、ガイナーレ鳥取、ザスパ草津(現・ザスパクサツ群馬)の当時J2クラブのセレクションを受けた。だが、ここでもまた合格を勝ち取ることができなかった。
「危機感はありましたが、とにかくサッカーを続けることは諦めませんでした」
いくつかのJFLチームのセレクションを受けて、2012年に入ることができたのが創設4年目の藤枝MYFC。JFL1年目のクラブで朴は社会人としてのキャリアをスタートさせた。だが、翌2013年はもう1つカテゴリーを落とした関東1部のFC KOREAに行くことになった。
「このままサッカー人生が終わっていくのかという不安もありましたが、とにかくJリーグの舞台に立ちたいと必死でした」