松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
ボッチャの雄叫びエース・廣瀬隆喜
に迫る。修造、ボールの中身に驚愕!
posted2019/06/17 10:30
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph by
Yuki Suenaga
松岡修造が、パラアスリートと真剣に向き合い、その人生を深く掘り下げていく「松岡修造のパラリンピック一直線!」。第五回のゲストは、ボッチャの廣瀬隆喜さんだ。
取材現場となったのは、世田谷区立希望丘地域体育館。最寄り駅からはやや距離があるし、近隣住民にもそれほど知られているわけではない。だが、ここは紛れもなく日本有数の“ボッチャ体育館”だ。世田谷区と日本ボッチャ協会が協定を結び、メインフロアにはボッチャ専用の白いラインが引かれている。コートは縦が12.5mで、横が6m。3面ものコートが常設されている体育館はまだ日本にほとんどないという。
この日、体育館に集まっていたのは「チーム廣瀬」のみなさん。パラリンピックに3大会連続出場を果たし、前回のリオ大会で団体戦の銀メダルを獲得した廣瀬さんと母親の喜美江さん。スポーツアナリストとして戦術や動作分析に携わる渋谷暁享さん。それにアスリートを多方面からマネジメントしサポートする三浦裕子さんが加わって、体育館には笑い声があふれている。松岡修造さんが体育館に姿を現わすと、挨拶もそこそこに、ボッチャ談義はすぐに花盛りだ。
ボッチャが競技として認められてきた証。
松岡「ここはすごいですね。施設も新しいし、ラインもボッチャ専用だし。世田谷区のボッチャスタジアムと呼びたいくらいです」
廣瀬「東京でもまだコートが常設されているのはパラアリーナとここぐらい。コート張りの手間を省いてすぐに始められるので、選手にとってはすごく嬉しいです」
松岡「ある意味、ボッチャが競技として認められてきた証しかもしれませんね。世間に認知されてきたという実感はありますか」
廣瀬「私はこれまでパラリンピックに3回出ているんですけど、北京やロンドンの頃はまだ知名度も低くて、地元でも、競技の説明から始めなければならなかった。でも、リオで銀メダルを獲得して、ちょっとしたボッチャブームがあって。今、いい流れは来ていると思います」
廣瀬隆喜(ひろせ・たかゆき)
1984年8月31日千葉県生まれ。先天性の脳性麻痺で、四肢体幹機能障がいを抱えている。養護学校の中学部でビームライフル、高等部で車いす陸上に打ち込み、その後ボッチャに出会う。始めて4年で日本ボッチャ選手権で初優勝し、これまでBC2クラスで7度王者に輝く。2008年北京(個人、団体ともに予選敗退)、2012年ロンドン(個人2回戦敗退、団体7位)、2016年リオとパラリンピックに3大会連続出場し、リオでの個人戦では準々決勝敗退で7位入賞、団体戦で銀メダルを獲得した。西尾レントオール株式会社所属。
松岡「おお! 『ボッチャブーム』が来た! 僕的には、それは『隆喜ブーム』に思えます。リオ大会の団体準々決勝、中国戦に勝ったときに、ものすごいガッツポーズを決めたでしょ。ウォー!! って。あのインパクトがすごかった」
廣瀬「ああ、はい(笑)」