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早大の生徒・鏑木から、コーチ・瀬古へ。
30年後に伝えた「後悔」と「お礼」。

posted2018/10/07 10:00

 
早大の生徒・鏑木から、コーチ・瀬古へ。30年後に伝えた「後悔」と「お礼」。<Number Web> photograph by Shin Hamada

建設中の新国立競技場前で、瀬古利彦と鏑木毅という知られざる師弟が再会した。

text by

礒村真介

礒村真介Isomura Shinsuke

PROFILE

photograph by

Shin Hamada

 瀬古利彦(62)と鏑木毅(49)、この2人の接点を知っているとしたら筋金入りの陸上競技通だ。

 現在、瀬古は日本陸連のマラソン強化戦略プロジェクトリーダーとして東京五輪へと向かうマラソンランナーたちを先導している。現役時代は世界最強ランナーの呼び声も高く、マラソン15戦10勝。宗兄弟とのライバル対決は日本中の注目を集めた。しかし五輪という舞台では勝利の女神に微笑まれることはなかった。

 一方、プロトレイルランナーの鏑木は、トレイルランニングにおける実質的な世界選手権、ウルトラトレイル・デュ・モンブラン(UTMB。170km、累積標高10,000m)で、2009年に3位に入り日本人としてはじめて表彰台に登った。しかし早稲田大学時代には、人生の目標だった箱根駅伝への出場が叶わないという挫折を経験している。

 勘のいい人ならお分かりかもしれない。1990年、現役を引退した瀬古が母校・早稲田大学の競走部コーチに就任したときの部員のひとりが、鏑木だったのだ。鏑木は現在49歳になるが、いまだにトレイルランナーとして現役で、50歳で迎える来年2019年夏に再びUTMBへ挑戦することを表明している。

 コーチと学生という関係から四半世紀を経て、2人の邂逅が実現した。

鏑木 今日は本当に緊張しますね……。

瀬古 ハハハ、緊張しなくていいよ。

鏑木 じつは少し前に偶然お会いして、少しお話しさせていただく機会があったんですよね。

瀬古 今年の春に、半蔵門線だったっけ? 偶然、電車の中で。

鏑木 大学3年生のとき以来でした。僕のほうは同じ車両に瀬古さんがいらっしゃるとすぐわかりました。でも、僕からは声をかけられませんでした。恐れ多いのと、あとで告白しますがちょっとした後ろめたさもあって……。僕のこと、覚えてましたか?

瀬古 そりゃあわかるよ、だってこの業界では有名人だもの。何年前だったかな? NHKをつけたら、なんだか見たことのある顔が映っているんだよ。ヨーロッパのモンブランの周りを走るとんでもないレースで(編集部注・UTMBのこと)、レース終盤にどんどん上位へとジャンプアップしている日本人がいる。

 そしてナレーションがカブラキ、カブラキって言っていて、「あの鏑木だ!」って。BS NHKのランニング番組にも出ているしね。競走部の同期のなかでは一番の出世頭なんじゃない?

鏑木 そうですか。覚えていてくださったんですね。

瀬古 変わった名前だったしね。でも、鏑木の年代が4年生のときに箱根駅伝では優勝しているし、当時のメンバーのことはけっこう覚えているね。ひとつ下の代には、武井隆次・櫛部静二・花田勝彦がいた。本来であれば彼らと一緒に優勝メンバーだったんだよな。何年生までいたんだっけ?

鏑木 3年のはじめまでです。

瀬古 そうか。2年生のとき、夏の合宿で走っていたのをよく覚えているよ。でも辞めた時のことは覚えていない。

鏑木 はい、退部したのはたしか瀬古さんが競走部にいらっしゃらない春のことでした。あのころはエスビー食品陸上部の監督を兼任されていて、競走部は箱根駅伝が終わったあとで部を離れていた時期でしたから。そのころに腰の状態が酷くなってしまっていたんです。

 僕はどうしても早稲田大学の競走部で箱根駅伝に出たいと思い、2浪して入部しました。そこまでして早稲田を目指した理由は2つあって、ひとつは早稲田出身だった高校時代の顧問の先生の影響です。でも、それ以上に大きかったのが瀬古さんの存在です。僕ら世代にとって瀬古さんは絶対的なランナーだったので、その人が通われていた大学に行ってみたいという想いがありました。

【次ページ】 早稲田時代、合宿という単語で気が重くなった。

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