終われない男の対談集BACK NUMBER
早大の生徒・鏑木から、コーチ・瀬古へ。
30年後に伝えた「後悔」と「お礼」。
text by
礒村真介Isomura Shinsuke
photograph byShin Hamada
posted2018/10/07 10:00
建設中の新国立競技場前で、瀬古利彦と鏑木毅という知られざる師弟が再会した。
早稲田時代、合宿という単語で気が重くなった。
瀬古 アナタが高校のときはまだ現役だったよな?
鏑木 はい。だからたとえ早稲田に入ろうが、指導を受けられるとは夢にも思ってなかったんですね。それが大学2年生のときにコーチに就任くださることになって、あまりのことに手が震えたのを覚えています。結局は1年ほどになってしまったのですが、ご指導いただきました。
瀬古 当時ね、俺が5000mを3本4本走るメニューを立てるじゃない。するとさ、上級生たちから文句がきたんだよね。瀬古さんの練習が多すぎるって。皆の意見を代弁していたのだと思うけれど。
鏑木 今思い返しても本当にキツい練習だったんです。瀬古さんが現役時代にも走られていた東宮御所での練習は印象に残っています。あそこを9周とか10周とか。あと、よく覚えているのは北海道の別海町での合宿。どの日もキツかったけど、30kmか40km走をやった翌日、5000mを4本か5本というメニューがありまして。
瀬古 そうそう! あったね。30km×2本はやらなかった?
鏑木 それもやりました。あの頃は、合宿という単語を聞くと気が重くなりましたから。
瀬古 そりゃあ遊びにいくわけじゃないんだからさ。合宿は普段できないことをやる場だからね。
箱根を走りたい思いで重ねた無理。
鏑木 でも、個人的にはどんなに厳しくても瀬古さんのいうことだからやるしかないという一心でした。3年後に早稲田は箱根で優勝したので、瀬古さんの練習メニューは正しかったんです。僕はケガでついていけなくなって途中リタイアしてしまいましたけれど……。
瀬古 なに、俺の練習メニューのせいで腰を悪くしちゃったの? 練習がつらすぎた?
鏑木 いえいえ(笑)。ただ僕ら一般入試組の選手は、普段の練習でも目立たなきゃいけないという意識がありました。日々が決戦じゃないんですけど、セレクションもあるし、常に見られているというか。
瀬古 起伏のある山道を走るトレイルランニングをやるんだから、練習がツラいなんてのは無いよなぁ。でも、一般入試組から箱根メンバーに入ろうとすると目立ちたいし、夏の合宿には行きたいよね。
鏑木 はい。その中で気負いすぎてしまって、無理を重ねたのが原因です。でも、瀬古さんの指導は自分には合っていたんだと思います。全然ダメだった1年生のころから強くなり、2年の夏にはAチームに入れて、箱根のメンバーに手が届くところまできていました。でも、自分が無理に無理を重ねてしまって。
瀬古 高校時代どれくらい走っていたのかわからないけど、急に一気に練習するとそうなっちゃうよな。ましてや2浪したんだから、1年はからだを戻すだけになるだろうし、厳しいよな。
鏑木 振り返ると、一気に伸びたけど一気にケガもしてしまったという感じです。あとは今だから言えますが、隠れて自主練もしていました。瀬古さんのもとで箱根を走りたいという想いがとにかく強くて。