フランス・フットボール通信BACK NUMBER
アウシュビッツに消えたサッカーの名将。
アルパド・ヴァイス、偉大なる戦術家。
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byL'Equipe
posted2018/09/27 16:30
稀代の戦略家だったアルパド・ヴァイス監督。セリエAで3度優勝した以上の数々の偉業を、サッカー史において残している。
サッカー史の偉大なる改革者として。
だが、数々の偉大なる実績以上に、ヴァイスは改革者(イノベーター)であるといえた。
彼こそはサッカーにフィジカルトレーナーを導入した最初の人物であり、自らもトレーニングセッションに参加するのを厭わない指導者だった。
また心理面の重要性も認識しており、グループをひとつにするためにレストランでの全員の会食を積極的に実践した。
奇異に感じられるのは、1928~29年にかけて南米に長期視察に出かけていることである。
それは'24年、'28年の五輪を連覇した南米サッカーへの先見の明であり、その結果は1930年にインテルのクラブ首脳との共著で著した一冊の著作に現れたのだった。
見つからないように静かに暮す家族。
家族の安全を確保するためにヴァイスが選んだ選択が、逆に彼らを苦境に陥れてしまった。
イギリスやアメリカに移り住むよりも、フランスに向かう方が安全だと彼は判断した。まさかその数カ月後にナチスが、フランスに侵攻するとは彼には思いもよらなかった。
フランス滞在はほんの3カ月ほどだった。ホテルでの生活に疲れ、仕事を得る見込みもない。レッドスターからはコンタクトがあったもののどこまで本気かハッキリしない。そんなときにオランダサッカー界で最も影響力のある人物のひとりであるカレル・ロスティからのオファーを受け、セミプロクラブのドルドレヒトFCとの契約を結んだのだった。
2年間滞在したオランダでの業績も素晴らしかった。
弱小クラブに過ぎなかったドルドレヒトをリーグ5位まで躍進させたのは、ほとんど奇跡と言ってよかった。
そしてピッチの外では、できる限り大人しく振る舞った。波風を立てずに静かに暮らすことが、危険から遠ざかる最善の方法であると彼は考えていたのだった。
ふたりの子供たち、ロベルトとカルラには、キリスト教の教義に則って洗礼名を授からせた。だが、彼自身はユダヤ教から離れることはなかった。