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アウシュビッツに消えたサッカーの名将。
アルパド・ヴァイス、偉大なる戦術家。
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byL'Equipe
posted2018/09/27 16:30
稀代の戦略家だったアルパド・ヴァイス監督。セリエAで3度優勝した以上の数々の偉業を、サッカー史において残している。
抵抗運動か? もしくは脱出か?
元ハンガリー代表選手であったヴァイスには選択肢がふたつあった。ひとつはこのままボローニャに留まり、民衆の支持を拠り所にしながらファシズムに抵抗を続けること。もうひとつは迫り来る危険を避けて、イタリアから脱出することであった。
10月に監督の職を辞したヴァイスは、状況の改善を期待しながらしばらく事態を静観した。そして翌'39年1月10日に、家族とともにパリ行きの列車に乗ったのだった。そのとき彼らはまだ気づいていなかった。それが苦難と忘却への道のりであることに……。
それはヴァイスだけに限らない、イタリアに住む多くのユダヤ人にとっての分岐点でもあった。
人種差別法により職を離れるまで、彼は多くの人々から敬意を払われ、称賛された指導者だった。セリエA最高の監督と評され、頂点の極みにあった。
数々のチームを栄光に導いた名将中の名将。
ジュゼッペ・メアッツァを擁したインテルでは、1930年には今日と同様の形式となったセリエAの最初のタイトルをもたらした。
1932年にはバリを降格から救い、さらにボローニャでその能力を存分に発揮した。就任から6カ月で素晴らしいチームを構築し、5年間(1931~35年)に及ぶユベントスのリーグ支配に終止符を打ったのだった。
彼のボローニャはセリエA連覇を果たしたばかりか、'37年春にはパリで開催された万国博覧会での国際トーナメントで、ヨーロッパ全土をも震撼させた。
ソショーとスラビア・プラハを連破した後、決勝でもチェルシーを4対1と破り見事優勝を遂げたのだった。
1934年イタリアワールドカップ決勝で決勝ゴールを決めたアンジェロ・スキアビオを中心としたチームは、力強さとテクニックの絶妙なバランスを誇っていた。