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50年前、第50回夏の甲子園の記憶。
『巨人の星』が開始、大阪では……。

posted2018/08/28 08:00

 
50年前、第50回夏の甲子園の記憶。『巨人の星』が開始、大阪では……。<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

夏の甲子園100回、時間の流れに埋もれさせてはいけない豊かな歴史がその中には詰まっている。

text by

増田晶文

増田晶文Masafumi Masuda

PROFILE

photograph by

Hideki Sugiyama

 100回目の全国高校野球選手権大会が終わった。

 決勝戦の日、私は大阪にいた。

 生家が経営していたものの、店をたたんで廃屋同然になったレストランがある。その店を取り壊すのに立ち会うためだ。

 ギラつく太陽の下、重機がモルタル壁をぶち破る。鉄筋がひしゃげた。もうもうと舞う粉塵に作業員がホースで水をぶっかける。

 50年前の昭和43年(1968年)、レストランはオープンした。その年、夏の甲子園は50回記念大会。全国2485校から48校が勝ち上がっている。アメリカ統治下の沖縄からきた興南高の姿もあった。

 感慨にひたっていると、ケータイのニュース速報が大阪桐蔭高の優勝を知らせた。

「オーサカトーイン? なんぞ、それ」

「東京のやつらが『大阪は遠いん』とかいうてけつかんのやろ」

「違うがな、北大阪の代表校や」

「アホ、大阪は興國やないけ」

 無残な残骸となったレストランから、当時の客たちの声がきこえてくるようで、思わず私はあたりを見回してしまった。

 1968年の夏、興國高校は初出場ながらアッパレ初優勝をとげてみせた。当時の私は小学2年生、やっぱりメッチャ暑かったこの夏を、昨日のことのように覚えている。

昔の懐かしい下町風景が……。

 レストランは東大阪市にあった。

 近鉄大阪線と奈良線が分岐する布施駅が最寄り駅。中河内の東端で、大阪市生野区と平野区の境界線が複雑に入り組んだエリアだ。やたら零細工場が多く、町の風景を決定づけている。油で汚れた菜っ葉服のオッサンたちが、今となれば妙に懐かしい。

 こんな町の店なのだから、レストランといっても高級フレンチ、ワインセラーとはほど遠い。食堂に喫茶店と居酒屋をぶちこんだような店だった。

 夏来たりなば、窓にでかでかと「クーラー完備」「大型カラーテレビ」「甲子園放送中」の手描きのポスターが貼られていた。

【次ページ】 「大阪のモンが東京の学校やと!」

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