One story of the fieldBACK NUMBER
あの夏を許せない。1984年大阪、
最強PL学園に挑んだ男たちの物語。
posted2018/07/31 15:00
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
Yoshio Toyoda/Sports Graphic Number
Number Web編集部より
豊田義夫はもう50年以上もバットを手に、グラウンドに立っている。
82歳。
すっかり色の抜けた頭髪は、洗いたてのユニホームほどに白く、日差しをたっぷり浴びた褐色の肌とのコントラストが、その印象をより鮮烈なものにしている。高校野球という舞台においては奇異と言ってもいいかもしれない。
ADVERTISEMENT
豊田はかつて、大阪の強豪・近大付属高校を率いて、3度のセンバツに出場した。関西球界では地位も名声も築いた指導者だが、3年前、ノックバットを振るう場所を求めて群馬県北部の利根商業高校野球部へとやってきた。新潟との県境、山に囲まれた豪雪地帯にある見知らぬ土地で部員集めから始めた。
「右も左もわかりませんでしたねえ……。雪の積もったグラウンドを見て、呆然としたこともありました」
「(夏の甲子園に)行ってないのは私だけ」
いつしか、史上最高齢の高校野球監督として知られるようになっていた。
なぜ、そこまでするのか。
「関西を出たことがありませんでしたから。こっちに来る時は、ずいぶん迷いました。でもねえ……、あの頃、関西で強豪と言われていた高校を指導していた人たちはみんな夏の甲子園に行っとるんです。行っていないのは私だけでしょう。だから、大阪を出るとき、家内には『骨になって帰る』と言ってきました」
そう言って、深くシワが刻まれた顔をほころばせたが、その奥の目だけが異様に光っている。老いの底に、分厚い執着が沈殿している。その堆積した執着が、豊田の姿を異様に迫力あるものにしているのだろう。
おそらく老将は、まだ見ぬ夏の甲子園に取り憑かれている。
まだ、見たことがないからこそ、余計に離れられないのかもしれない。
その執着を生んだ1つの記憶がある。
「あの試合は今でも忘れられませんねえ……。私の人生で最も印象に残っている試合です」
豊田は34年前の夏、自らが下した、ある決断を許せずにいるのだ。
「今日はな……、奇襲でいく」
1984年7月28日。
全国高校野球選手権・大阪大会の準々決勝はPL学園と近大付属の顔合わせとなった。前年秋の近畿大会で4強に入った両校の対戦は、事実上の決勝戦と言われていた。
ただ、現実的には「ライバル」と言うより、当時のPL学園を倒せる可能性があるとすれば、近大付属だろうという類のものだった。
桑田真澄、清原和博が1年生だった前年の夏に全国優勝を果たしたPL学園は、そのKKコンビが2年生となったこの年、ますます強さを増したとみられていた。大阪の他の高校にとっては、甲子園に行くということはつまり、PLを倒すということを意味していた。そういう時代だった。
その日の朝、近大付属高校野球部の主将・伊藤大造は奈良県生駒市にある「洗心寮」から散歩へ出かける直前、監督の豊田に別室へ呼ばれたのを覚えている。
伊藤は不思議に思いながら監督室をノックした。ミーティングはいつも球場に到着してからのはずだったからだ。ドアを開けると、何かを決意したような表情で豊田が待っていた。
「今日はな……、奇襲でいく」
主将の反応をうかがうように言った。
「マサタカでいくから。お前、あいつの様子を見て、いつもと違うとか、おかしいと感じることがあったら、報告してきなさい」
伊藤はそれを聞いて、驚いた。準々決勝進出を決めた前夜のミーティングでもそんなことは言っていなかったし、なにしろ、公式戦でほとんど投げたことのない1年生をPL戦の先発マウンドに上げるというのだ。