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前橋育英サッカー部監督にして校長。
山田耕介の真っ直ぐな人生を考える。 

text by

安藤隆人

安藤隆人Takahito Ando

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photograph byTakahito Ando

posted2018/01/16 11:00

前橋育英サッカー部監督にして校長。山田耕介の真っ直ぐな人生を考える。<Number Web> photograph by Takahito Ando

前橋育英高校の校長室で撮った、山田校長の貴重なワンショット。背後には沢山の表彰状・トロフィーが並ぶ。

小嶺忠敏監督が可愛がった、選手としてのスタート。

 そんな山田監督には、筆者も駆け出しの頃からまるで教え子のように可愛がってもらった。遠征先では朝までお酒を交えながら話したり、時にはサッカーだけに留まらない様々な教えをもらったりした。間違いなく、今の自分を作り上げてくれた人物の1人だと言える。

 山田監督に多くの人が惹かれるのは、サッカーの指導力はもちろん、その人柄にあるのだと思う。さきほど「非常に人間味のある懐の深い人物」と表現したが、それを物語るエピソードは数えきれないほどある。

 まずは高校時代。

 島原商ではキャプテンを務め、遠征のバスでは常に助手席に座り、地図を広げて、運転する小嶺忠敏監督(現・長崎総合科学大附属サッカー部監督)のナビゲーション係だったという。

「後ろで他の選手達が寝ているのに、俺は小嶺先生が『耕介! どっちの道だ!?』と聞かれる度に『右折です!』『左折です!』と、手元の地図を頼りに言っていた。まったく寝れなかったよ(笑)。しかもたまに間違えて、『耕介ぇ~!』と怒られて、『すみません!』というやり取りもしょっちゅうだった。今は良いですよね、カーナビがありますから(笑)」

 小嶺監督は、山田の抜群のキャプテンシーと真面目な姿勢、そして人柄に心底惚れ込んでいたからこそ、その重要な役目を託したのだ。

 山田が前橋育英サッカー部の監督になってからも、「お前、いつ長崎に帰ってくるんだ」と指導者としての帰還を催促し続けていたほどだった。

同世代に並ぶ、綺羅星の如き名将たちとの絆。

 一方で、「前橋育英の教え子を放り出して、自分だけ長崎に帰ることは出来ない」と、恩師からの要望を断り続け、監督を務め続けたことに現れているように、山田監督は非常に義理堅い人物でもある。

 彼と親しい同年代の指導者には、星稜・河崎護監督(58歳)、四日市中央工・樋口士郎監督(58歳)、大津・平岡和徳監督(52歳)、元市立船橋の布啓一郎監督(57歳/現ザスパクサツ群馬監督)と錚々たるメンバーがいる。

「河崎は本当に人格者。人間的に素晴らしく、いろんなことに気付けるし、アイデアがあって、求心力がある。士郎は本当にまじめで、サッカーが大好きで仕方が無くて、サッカーの話をしたら止まらない。だからこそ、浅野拓磨(現・シュツットガルト)のようながむしゃらでサッカーが大好きな選手が育つ。平岡は『キレ』があるよね。あいつは『言葉の天才』で、人を惹き付ける能力が高い。あと、布は良きライバルだった。彼は強い信念を持っていた。勝負に対する徹底度が凄くて、自分の考え方と信念がはっきりしていて、そこは見習っている」

 そう手放しで誉め称えたように、彼らとの絆は非常に深く、山田監督はそんな“友”のためならどんなことがあっても駆けつけるのだ。

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