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“浦和育ち”山田直輝の大きな転機。
湘南で思い出した、輝くための原点。 

text by

轡田哲朗

轡田哲朗Tetsuro Kutsuwada

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photograph byJ.LEAGUE PHOTOS

posted2015/08/19 10:40

“浦和育ち”山田直輝の大きな転機。湘南で思い出した、輝くための原点。<Number Web> photograph by J.LEAGUE PHOTOS

将来を嘱望された山田直輝も気づけば25歳になった。しかし彼が、浦和に、そして代表に復帰することを諦めているはずはない。

「今日は、ボールに触るのが怖かった」ほどの苦悩。

 しかし、ここから山田のサッカー人生は苦悩に満ちたものになる。何度となく負傷を繰り返し、満足にプレーしている姿を見る機会がほとんどなかった。'14年も開幕から起用されず、6月のワールドカップでの中断期間を迎えていた。

 その頃の山田は、サッカー選手としてのバランスを崩していた。こういうプレーをしよう。こうやってボールを扱おう。ここに走り込もう。と、頭で判断するプレーに体が付いていかない。ことあるごとに「イメージ通りに体が動かない」とこぼした。練習でいいプレーができないから、試合に出られない。試合に出られないから、コンディションが上がらない。コンディションが上がらないから練習で……。

 最悪の循環だった。

 そして、忘れられないのが7月上旬に大学生とトレーニングマッチをした後のことだ。

「今日は、ボールに触るのが怖かった」

 まさか、山田の口からそんな言葉を聞くとは思いもよらなかった。いつも、ボールが友達と言わんばかりにプレーしていた男が、そこまで追い込まれていた。

ピッチに出て走り回ってこそ、プロサッカー選手。

 環境を変える必要に迫られたのは、必然だったのかもしれない。子供のころから地元のチームとして応援してきた愛着ある浦和に留まるか、湘南にプレーする場所を移すのか。彼の身近な人の中には、浦和でやった方が良いんじゃないかと言った人もいたという。話し合いの経過を伝えると、家族は自分で決めればいいと一番に言ってくれたという。湘南の曺貴裁監督には、直接会って言葉を伝えられた。

 一方で、浦和のトップチームを日本一に導くのはずっと夢見てきたことだ。そうした様々な要素の中で最後まで悩んだが、山田は一つの決断を下す。

「僕はサッカー選手。浦和の選手であることがサッカー選手じゃない。ユニフォームを着て、ピッチに出て走り回るのがサッカー選手」

 湘南の選手として'15年のシーズンを戦うことを決めた。浦和からの期限付き移籍ではあるが、浦和戦へ出場できる契約にすることも直訴した。ハードで知られる湘南のトレーニングは、そうした迷いや悩みを感じているヒマなど与えられないものだ。

 走って戦う。

 サッカーにおいて必要不可欠な、シンプルなベースが強調される。

「鍛え直されていますよ。本当に、毎日が充実しています」

 真っ黒に日焼けした山田は、浦和時代より一回り体が絞れていたような印象だった。

【次ページ】 「もっとブーイングされるようなプレーをしたかった」

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