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過去の五輪代表には、A代表がいた!
前園、中田、清武の系譜を継ぐ者は?
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph byNaoya Sanuki
posted2015/07/02 16:30
アトランタ五輪最終予選で喜びを爆発させた選手達の中には、前園真聖や城彰二の姿が見える。フル代表での彼らの経験はチームに大きな成長をもたらした。
前園、小倉、城、中田、中澤という飛び級の系譜。
1996年のアトランタ五輪でキャプテンを務めた前園真聖は、'94年5月のキリンカップで日本代表デビューを飾っている。同年10月のアジア大会では、三浦知良、柱谷哲二、井原正巳らの“ドーハ組”とともにレギュラーとしてプレーした。
'94年5月のキリンカップでは、小倉隆史も日本代表としての第一歩を刻んだ。城彰二も'94年から代表候補に名を連ね、95年9月にデビューした。
結局、'96年3月の最終予選に小倉は出場していないが、前園と城のホットラインが攻撃を牽引し、28年ぶりの五輪出場を手繰り寄せることとなった。
2000年のシドニー五輪に出場した18人には、フル代表のシンボルとして君臨する中田英寿が含まれていた。ケガの影響などで18人のメンバーから漏れたものの、小野伸二も中田とともに'98年のフランスW杯に出場している。
'97年と'99年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)出場組がズラリと揃うシドニー世代で、中田、小野に次いでフル代表入りしたのは吉原宏太である。吉原に次いで国際Aマッチ出場を果たしたのは、中澤佑二だった。最終予選前の'99年9月に、フィリップ・トルシエのもとで日本代表に選出された。
世代からフル代表選手が出ると、競争が加速する。
最終予選を前に代表入りした人数そのものは、アトランタ、シドニーのいずれの世代も多くない。ただ、先行するチームメイトの存在はチーム全体を刺激する。ライバル意識が高まる。
ワールドユースに出場していない吉原や中澤のフル代表選出は、タレント揃いのシドニー世代を刺激した。フル代表の活動が、五輪代表強化の一環となっていたのだ。
2004年3月に最終予選を戦ったアテネ世代では、ストライカーの大久保嘉人が'03年5月にジーコから招集を受けた。翌6月のコンフェデレーションズカップでは、攻撃的MFの松井大輔もピッチに立った。
10月にはセンターバックの茂庭照幸が、12月にはサイドアタッカーの石川直宏が、フル代表の一員として国歌を聞いた。ダブルセントラル方式で行なわれた最終予選では、フル代表で培われた彼らの経験が、チームの共有財産として生かされていた。