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松井秀喜から注入された宿命と覚悟。
村田修一、真の「巨人の4番」へ。 

text by

田口元義

田口元義Genki Taguchi

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photograph byHideki Sugiyama

posted2014/02/18 11:20

松井秀喜から注入された宿命と覚悟。村田修一、真の「巨人の4番」へ。<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

阿部慎之助との4番争いに改めて意欲を燃やす村田修一。昨年は打率3割1分6厘、25本塁打、87打点とリーグ連覇に大きく貢献したが、日本シリーズでは楽天に競り負けた。今季への思いは強い。

松井は「巨人の4番」を打っていることを常に意識した。

 横綱のように、「第○代」と冠せられる4番は野球界では巨人以外に存在しない。1995年から2002年まで絶対的な主砲として君臨した第62代4番・松井は、自らの経験を振り返りながら第76代4番・村田に、さらにこのような助言を贈った。

「『自分がジャイアンツの4番バッターを打っている』とは常に意識していましたよ。そのために、『自分は何をしなくちゃいけないのか?』ということも意識していたし。それは、4番を打つ選手の宿命だと思います」

 巨人の4番は宿命との戦いである。

 伝統球団、常勝軍団であるが故に、結果を出せなかった際の周囲からの非難は尋常ではない。松井コーチ自身、巨人時代の'00年から'02年まで一度も4番の座を明け渡すことはなかったが、結果を残してもなお両手のマメが消えないほどバットを振った。「巨人の4番」の重みを背負い続けたのだ。

 松井コーチはしみじみと語る。

「最高のポジションじゃないですか。野手のなかではね」

清原ですら精神的に追い詰められ、成績を残せなかった。

 巨人の4番にはそれだけの権威がある。生え抜きであっても、その“最高位”を守り続けるのは容易ではない。何より、村田のように他球団から移籍してきた“外様”であればなおさらのことである。

 第64代を襲名した清原和博は、その重圧から親指の爪が割れたというエピソードもあるほど、精神的に追い詰められていた時期もあったという。西武時代にアーチストとして名を馳せた男も、巨人の4番としては通算297試合で67本塁打、213打点、打率2割4分9厘と、他を納得させる成績を残すことができなかった。

 実力だけでは務まらないのが巨人の4番。だからこそ、「自覚」と「責任」に強くこだわり、それに見合った行動、そして結果へと繋げていかなければならないのだ。

 '04年にダイエーからトレードで移籍し、'06年までの3年間で173試合に4番に座った小久保裕紀は、巨人在籍時代、伝統の重みをこのように表現していたものだ。

【次ページ】 小久保が原監督から感じた「絶対に逃げない姿勢」。

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